『彼岸過迄』

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この小説は、短編がいくつか集まって一つの小説を形作るように書かれた漱石の実験小説である。
その構成に、少し破綻があるのではないかと、かねてから批判されてきた作品でもある。
実際、面白いのは、敬太郎が森本の冒険談に胸を躍らせる話より、その敬太郎が探偵ごっこをする話より、須永の嫉妬の分析的な告白の方である。こちらの話の方が本題ではなかろうかという観点からすれば、この小説は須永を軸に据えた一大長編にした方が面白かったという言い分もよく分かる。
しかし、漱石はなぜか、そうはしなかった。むしろ、この時代を支配する二つの空気を対比的に描いたと言えないだろうか。精神分析的に言えば、外向的精神と、内向的精神、二つの時代精神を描いたというように(河合隼雄ユング心理学入門』参照)。漱石はそのどちらも肯定的に描いていない。須永の話は内向的精神の牢獄と苦悩を痛いほど描いている。一方で、外向的精神の敬太郎は、須永(や、高等遊民・松本)の話を通して人間の、人生の内奥に触れえたかのような錯覚で終わったというように書かれている。つまり、外向的精神もまた満たされないものが残るということだろう。
漱石は、内向的精神も外向的精神もともに肯定的に描いていないというところが面白いのではないだろうか。
この二つの精神は、「伝統日本」と「西洋かぶれの日本」、あるいは日本的無意識とメッキをほどこした西洋流意識の対比など、さまざまな寓意として理解することができるかもしれない。その意味で、近代精神分析の書と言えるだろう。