エッセイを書いてみた

今日も一日、仕事を無事終える。
特にこれといった成果があったわけではないが、こなさなければならない所与の課題を無事し終えたのである。一日が終り、ホッとする。それ以上に何をか望まん。
香山リカが、どこかで「仕事を無事終えて、今日も生き延びた。それだけで、社会人としては十分で、許されるのだ」といったことを書いていた。特にこれといった成果を出せなくても、生き延びたことそれ自体が成果だという。いい言葉だなと思っている。
最近は、同僚からある宗教団体に誘われたりして、週末も妙な電話がかかってきたりしていたので、ちょっと精神的にナーヴァスになっていた。
ウチダ先生は「相手に自分への奉仕をさせて、自分が気持ちよくなることが愛ではない。愛とは、自分が最大限の努力をして相手に居心地の良さを与えること」といったことを書いていて(『子どもはわかってくれない』)、僕も「まさにまさにその通りだ」と思っているので、こんな呪詛的な人間関係に巻き込まれた以上は、さっさとそこから離脱するに限ると考えていた。

ラ○ットラのレッスンが終わった。
プーリア州の郷土料理が頻繁に取り上げられた。日本に紹介されていない料理が沢山あるらしい。
イタリア料理好きは、是非、プーリアに注目せられよ。

先日ふと漱石の『猫』を読み始めた。
結構面白いじゃんか。
あの分厚い分量に、ずっと辟易倦厭としてきたのだが、漱石の自己批評或いは諧謔精神みたいなのにすっかり魅了される。猫の言い分は、漱石の自己批評として読める。
K谷行人はかつて「漱石は批評を断念して小説に行った。自分はまだ批評に踏みとどまる」と発言していたが、本当にそうか? 漱石は批評を断念しただろうか?
処女作には、作家の可能性の萌芽がすべて内包されているという。『猫』にも漱石の可能性が内包されているのだろうか。僕の考えでは、漱石は批評を現代における「批評文」のような形式を使わずに、小説という文芸形式を用いることによってのみ行おうとしたのである。物語中に多くの人物を介在させ、語り手によって、自由自在に解釈してみせる。そこにこそ、漱石の批評性が発揮されたのである。
物語は、語り手の語りのプロセスによって進行する。
漱石は、自分(とその周囲の世界)を客観視する語り手を作り出すことによって、この世界を批評しようとしたのではないか。そこに、自分の知的エネルギーを費やすに値する価値を見出した。
『猫』とは、漱石がなぜ小説という文芸形式に固執したかの証左である。
また、当時「小説」は、日本において新しいメディアの形式だったから、新聞という新興媒体の中で特権的な地位を占めることができた、ということも見逃せない。当時の知識人は、批評文よりもむしろ、小説のような文芸形式を通して自らの思想を練磨していたのであろう。

今日は、昨日作ったボッリートミストの残りを使って、美味しいラーメンを作る予定である。
家人はまだ帰らない。
一杯やりながら、今日も静かな時が流れる。