PCを新調

Microsoft Surface Laptop5を新たに購入した。

仕事用PCである。

僕の所属する学校では、私物PCの持ち込みは申請が必要ではあるが、一応持ち込み可能である。

備品のPCは性能が悪く、正直仕事の用をなさない。そこで、高性能のPCを買うことに決めたわけである。

職場で支給されるPCもあるのだが、やはりこれまた性能が悪い。また、職員室でしか使えず、教室に持っていって授業をするためには、どうしても一台が必要だ。

もはやPCは文房具である。

大いに活用したい。

継続は力

「継続は力なり」というが、その本当の凄さを知っている人は少ないのではないだろうか。多くの人は三日坊主で終わる。

「好きこそものの上手なれ」というが、「嫌いでも続ければ上達はする」と言いたい。

好きなことであれば、自然に継続するから上手くなる。逆に嫌いなことは続けたくないから上手くならないというだけの話ではないだろうか。

でも、嫌いなことでも、1日5分だけやってみる。それを次の日もやってみる。昨日やったから少し知っているし、昨日に比べて少しは進歩するかもしれない。そこに自分の成長を見出して、明日もやってみようと思うのがよい。

それで、毎日5分を続ける。

その継続が、?をいずれ!に変えてくれる。そうすると、これまで苦手だったことにも取り組んでいく糸口が見つかる。

そうして、進歩していく。

重要なのは毎日続けることであり、トータルの時間ではない。

例えば、1日5分を5日間続けるとする。トータルでは25分だが、じゃあ1日だけ25分やって、残りの4日はやらなくてもいいじゃないかと思うかも知れない。

でも、そういうものではないということを多くの人は知っている。

5日間続けることと1日に集中して行うことは、違うことなのだ。

そういうわけで、何かに取り組むなら、毎日時間を決めて少しずつ取り組む。それを継続するというのが正解だろう。

新作のヌプリパック30

バックパックが好きだ。

旅用のバックパックを探している。

最近見たモンベルのヌプリパック30

 

https://webshop.montbell.jp/common/images/product/prod_k/k_1133434_wrd.jpg

モンベルのこのサイズのバックパックの中では、かなりシンプルな作りのようで、それが逆にいいと思う。

これまではノースフェイスの30Lサイズのバックパックを使っていたが、背面が浮き上がったフォルムで、ちょっと扱いづらいと感じていた。

この際、買い換えようか。ただ、先立つのは予算である。

先日、封筒型の寝袋を買ってしまった。

ダウンファミリーバッグ#1

https://webshop.montbell.jp/common/images/product/prod_k/k_1121311_bric.jpg

キャンプでもやろうというのか?

別にキャンプをしようと思ったわけではないのだけれど、たまたま行きがかりでこれを買うことになったのである。

ただせっかくなので、テントも買ってソロキャンプするのも悪くない。

また、ザックを買わなければならなくなった。

胸糞の悪い社会を生きる

最近は、気持ちが沈んでいる。

もともと気持ちが沈みがちな性質。

人生には「躁」の時期と「鬱」の時期があると思う。今は「鬱」の時期なのだろう。

考えてみると、非常勤講師をしていた二十代までは「躁」の時代だった。

三十代になって専任教員となり身分と収入は保証されるようになったが、そこからは下り坂で、「鬱」の時代を転げ下りてきたような気がする。

気がつけば五十路。

社会にうまくフィットできなくなった。考えが古いままアップデートできていないからなのだろうか、周囲の人たちとの会話にギャップを感じることが多い。

そもそも今の政治や社会風潮自体が、かつての日本の美徳としてきたものを蔑ろにしており、それを支えている国民の民度も低くなっていると思う。

僕が住んでいる世界は限られた狭い社会だけど、そうした現代日本の傾向の一端をかなり垣間見ることができる。それに違和感を抱かない人たちも多い。違和感を抱いている人はメンタルヘルスの問題を抱えて休職してしまっているのだろう。

とても不愉快な世界だ。胸糞が悪くなる。

その不愉快を打ち消そうと必死にもがいている。だけど、なかなか吹っ切れない。

今の時代を明晰に分析する批評や哲学がないことも不満だ。

多くの識者は何をつぶやいているのだろうか。

インフルエンサーはメディアへの露出は多いが、露悪的で、この社会の貧しさを増幅して見せているだけのような気もする。こんな程度の言論が世間を跋扈しているのかと、そのさもしさに虚しさを覚える。

かつて僕は喧嘩っ早く、多くの人を敵に回したし、仲の良かった友達もたくさん失った。その後遺症を今も引きずっていて、今でも人をあまり信用することができない。人と親しくなることができない。一定の距離を置いてしか付き合えない。

人嫌いな性質になってしまったようだ。

職場ではもちろんのこと、私生活でも友達とよべるような人がおらず、孤立した生活を送っている。

バンドの仲間とは和気藹々やっているが、所詮バンドだけの付き合いである。

自分のような人間は、他にもいるのだろうとは思う。

そういう人たちと邂逅して、もっと深い繋がりが生まれれば、少しはこの世界に生きる希望を見出せるのかもしれない。

あるいは、もっと強く生きている逞しい人たちに出会って、自分の不甲斐なさを反省し、出直す気持ちになることが必要なのかもしれない。

勉強用ノートの定番はあるのか?

社会人の勉強についてです。といっても中高生と勉強という点で何ら変わるものではないと思います。

最近ノートを使い始めたのですが、勉強ノートについていろいろな問いがあります。

◯ ノートは「綴じノート」か、「ルーズリーフ」か。

◯ ノートは教科ごとに分けルべきか。一冊にするべきか。

◯ ノートのサイズはB5かA5か。

などなど。

 

僕は「綴じノート」「A5一冊」が正解だと思っています。

なぜか。

仕事のカバンに入れて持ち歩くことを想定した場合、ルーズリールはリング分の厚みがあって嵩張ること。広げて使うと紙の面積以上にルーズリーフの表紙の面積が広いため、場所も大きくとること。以上2点の問題点があるからです。

仕事にもよりますが、普段カバンの中はいっぱいなので、一冊のノートを入れるので精一杯です。それに勉強ノートは仕事中は使わないし、通勤時間帯に電車で広げて見るかどうか?といった程度の出番しかない。書くのはもっぱら帰宅後の自由時間でしょう。そこでしか勉強する時間なんか取れないのです。

そう考えると、ルーズリーフなどの嵩張るノートは主力になりにくいです。生かしきれません。(樋口式アイデアマラソンをやりたい場合は別でしょうが。)

そこで「A5綴じノート」。

大きさ的にA5は物足りないですが、実は社会人の勉強ノートとして最適な大きさです。A5の1ページは1項目を割り当てるにちょうどいい。ちょっとした小ネタでも、1ページで収まる感じで、重たくならない。京大カードを使った知的生産では、1枚1項目が大原則。それと同じで、1ページ1項目がA5ノートだといける。B5だとちょっとデカすぎる、という感じです。

休日なら1日に10ページくらい書いてしまうでしょう。30枚のノートだと、3週間くらいで1 冊を使い切ってしまいそう。それでいいんじゃないでしょうか。そのくらい書き殴らないとノートを使った勉強の甲斐がなさそうです。

ノートが膨大に家に貯まるのは避けたいですけれど、一定期間はノートの山に埋もれることも仕方がない。勉強を進めるには、避けて通れない課題でしょう。

 

なぜPat MethenyはES175からPM200に持ち替えたのか?

過去のメセニーのインタビュー記事を参照するべし。

僕の記憶では、メセニーはギブソンの高価格に対するクオリティについて不満を述べていた。それ以上のレベルを日本製のアイバニーズが提示してきて、それが気に入ったから、と述べていたような気がする。

ちなみにES175は20フレット、PM200のプロトタイプがやはり20フレット、市販されているPM200は22フレットである。だからどうした?というだけの話かもしれない。

それにしても、ギブソンのような歴史あるメーカーから、新参のアイバニーズに鞍替えするメセニーの目利きとはいかに?に興味惹かれる。

 

詳細は以下をご覧あれ。

bl-music.com

インタビュー記事を文字で読んだのだが、メセニーがアイバニーズを使い続けるのは、その品質の高さに惚れ込んで、ということに尽きるようである。

メセニーは、ギターのブランドで勝負するようなことをしない。自分の音楽を表現することで評価されようとし、その表現を適切に行うための道具としてギターを見ている。

そこがアマチュアと違う。

マチュアはブランドから入る。

楽家は、音楽を通して世界を表現しようとする。

その世界を表現することのモティーフが彼を動かす。

マチュアは真似をする。(真似が悪いわけではないけれど、究極的に真似に止まっている人はアマチュアであり、新しい世界を創造しようとしている人は、未熟であれプロであろう。日本では、アマチュアがプロのような顔をしている気がする。)

 

昔が近しく感じられるのはなぜ?

自分は70年代前半の生まれだが、子供の頃、60年代はだいぶ昔でビートルズはもはや古典だったし、50年代といえば大昔で、戦中は太古の昔といった感があったが、最近は60年代がだいぶ近しい時代だと感じるようになった。というか50年代もだいぶ笠置シヅ子の映像を見たが、本当に今と変わらないような親近感を覚える。というか、江戸時代や平安の昔さえも親近感を感じるくらいである。

ただ、笠置シヅ子の映像が今は簡単にYouTubeで見られるが、昔はそうじゃなかった。この映像が手軽に見られるようになったことは、大きな変化である。

自分が大学生の時だった、音楽ライブ映像はそうそう見られるものではなく、ビデオやDVDは高価だったし、海賊版なんかを手に入れて、画質の悪い映像をなんとか見ていた。

それが今じゃ、YouTubeで昔の映像が何でも簡単に見られるようになったのだ。そのことが、昔を近しく感じさせてくれる理由なのではないかと思った。

もっとも自分が歳をとったことが何より大きいのかもしれないが。