胸糞の悪い社会を生きる

最近は、気持ちが沈んでいる。

もともと気持ちが沈みがちな性質。

人生には「躁」の時期と「鬱」の時期があると思う。今は「鬱」の時期なのだろう。

考えてみると、非常勤講師をしていた二十代までは「躁」の時代だった。

三十代になって専任教員となり身分と収入は保証されるようになったが、そこからは下り坂で、「鬱」の時代を転げ下りてきたような気がする。

気がつけば五十路。

社会にうまくフィットできなくなった。考えが古いままアップデートできていないからなのだろうか、周囲の人たちとの会話にギャップを感じることが多い。

そもそも今の政治や社会風潮自体が、かつての日本の美徳としてきたものを蔑ろにしており、それを支えている国民の民度も低くなっていると思う。

僕が住んでいる世界は限られた狭い社会だけど、そうした現代日本の傾向の一端をかなり垣間見ることができる。それに違和感を抱かない人たちも多い。違和感を抱いている人はメンタルヘルスの問題を抱えて休職してしまっているのだろう。

とても不愉快な世界だ。胸糞が悪くなる。

その不愉快を打ち消そうと必死にもがいている。だけど、なかなか吹っ切れない。

今の時代を明晰に分析する批評や哲学がないことも不満だ。

多くの識者は何をつぶやいているのだろうか。

インフルエンサーはメディアへの露出は多いが、露悪的で、この社会の貧しさを増幅して見せているだけのような気もする。こんな程度の言論が世間を跋扈しているのかと、そのさもしさに虚しさを覚える。

かつて僕は喧嘩っ早く、多くの人を敵に回したし、仲の良かった友達もたくさん失った。その後遺症を今も引きずっていて、今でも人をあまり信用することができない。人と親しくなることができない。一定の距離を置いてしか付き合えない。

人嫌いな性質になってしまったようだ。

職場ではもちろんのこと、私生活でも友達とよべるような人がおらず、孤立した生活を送っている。

バンドの仲間とは和気藹々やっているが、所詮バンドだけの付き合いである。

自分のような人間は、他にもいるのだろうとは思う。

そういう人たちと邂逅して、もっと深い繋がりが生まれれば、少しはこの世界に生きる希望を見出せるのかもしれない。

あるいは、もっと強く生きている逞しい人たちに出会って、自分の不甲斐なさを反省し、出直す気持ちになることが必要なのかもしれない。