ドラマ「glee」について思う

遅まきながら、gleeというアメリカのTV番組のことを知った。(たまたまYouTubeトニー賞のステージを見ていたら、gleeの曲にリンクした)
主人公役の青年が若くして突然亡くなった報道は見て知っていた。今回、この番組を調べていて、「ああ、あの青年か」とようやく繋がった次第。

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この番組に興味を持ったのは、YouTubeで、JourneyのDon't stop believingを聴いたことがきっかけ。何気なく聞き流していたら、何かハッと心を掴まれたんだよね。それで、何だ何だこれは?と思ってよく見始めたら、何かすごいものに出会ったと直感した。調べてみれば、2011年からやっているアメリカの人気番組で、マドンナをはじめそうそうたるセレブが大絶賛し、社会現象を巻き起こした番組だというじゃないか。そうだろう、そうだろう、と思った。

ここから自論だが、学校カーストの最下位にいる者たち(マイノリティー)が、歌と踊りで上昇するという一種のアメリカンドリーム的な構造が、そこにはある。これってアメリカ人好きに決まってるじゃないか。
でも、最近思うのは、これって今も廃れていない現象だということ。例えばBritish got talentという番組で、スーザン・ボイルポール・ポッツがはじめは鼻であしらわれて嘲笑されていたのに、歌い始めるやいなや、一斉に聴衆の拍手喝さいを浴びたことは記憶に新しい(くもないか・・・)
社会的に底辺にくすぶっていて、上昇のチャンスすらなかった者たちが、その才能で一気に上昇に転じるという逆転劇に人々が狂喜乱舞するのは、なぜなのだろうか。
今の日本は、非正規雇用が急増し、正規雇用の道は狭められている。社会に用意されたパイの数は限りがあり、そのパイを取り合っている状況だ。チャンスを得られたものは幸いだが、そうでない人にはいつまでたってもチャンスがやってこない。たとえ底辺でも飢え死にすることはないという点では、幸せかも知れないが、上昇へのチャンス=希望を持つことができないという意味では不幸である。成熟社会とは、そういうものなのだろう。
少し前に、「Always三丁目の夕日」という映画がヒットし、昭和30年代が美化されすぎていると批判されたが、あの映画は、逆に言えば、成熟社会になった現在の不幸という論拠を共有していなければ共感できない映画であったとも言える。
希望は、何もアメリカンドリームだけの特権ではない。いつの時代においても、希望は人にとって大きな勇気を与える。ただ、成熟社会において、アメリカンドリームがかつてないほどに説得力を持ちつつあるという逆説を面白く思うのである。