『ワーキングプア』門倉貴史(宝島社新書)を読み直す

ワーキングプア」という言葉が登場したのは2006年のこと。あれから4年が経ち、現在の社会状況を見れば、この言葉は今もって深刻さを増しているように思われる。ここ数日は朝日紙上では「弧族の国」というシリーズ連載が出ているが、ワーキングプアの泥沼に深く嵌りこむ高齢者たちが、身寄りもなく無縁死する実態が報告されている。今の日本は「ワーキングプア」「高齢化」「無縁社会化」の三重苦を負っているようだ。頼る家族がいない高齢者にとって、無縁死するのは必然なのだろうか? そもそもこの国は極めて社会保障の不足した社会だったのではないか。今までは「家族」がセーフティーネットとなって、なんとか凌いできただけのこと?と思えなくもない。
そもそもなぜこんなに多くのワーキングプアが生まれているのか? その一つの要因は著者も指摘しているように、少子高齢化の到来によって、企業が安定成長を望めなくなり、かつ終身雇用・年功序列制度を維持できなくなったことは間違いない。しかし、問題は企業だけの責任なのであろうか? 少子高齢化の到来は既に予測できていたのであり、政府や経済界はなぜ事前に策を立てられなかったのか?という疑問は拭えない。あるいは政府や経済界は、そうなることを予想していながら、あえて貧困層を生み出す選択をしたのだろうか? そこには複雑で多様な力が関わっていたはずだし、その結果として今のワーキングプアの現実があると見るべきだ。しかし著者は、ややもすると企業の責任ばかりを追及している点が気にかかる。「最大の要因は、日本の企業が正社員の数を減らして、派遣社員契約社員、嘱託職員、パートタイマー、アルバイトといった、いわゆる非正社員の数を増やしていることがある」(22ページ)、「会社の勝手な都合で切り捨てられた中高年層の人たちが悩みぬいた末に自殺するのを、私たちは弱肉強食の資本主義経済では仕方のないことと割り切って、見過ごしてもいいものなのだろうか?」(69ページ)、「こうした企業の身勝手な行動が第2章でみたような中高年層の『ワーキングプア』を生み出す主要な要因になったと考えられる」(103ページ) このような視点に囚われる限り、先に述べたような政治や経済界の多様な力関係が見えてこないばかりか、それらを不問にし、企業叩きの不毛な連鎖を生みかねない。
 著者は政治の問題にも触れていないわけではない。小泉政権化での「聖域なき構造改革」が結果として「社会の公平性」を失わせた(180ページ)との指摘である。しかしここでも、政治は今後どういう方向に向かうべきかといった議論には向かわずに(「消費税増税はやめて『支出税』にすべき」という案は出されるのだが…)、「企業は非正社員から正社員への門戸を開放すべき」「企業はワークシェアリングを導入すべき」「企業は副業を認めるべき」と、またもや企業の側ばかりに話が向かっているのだ。
 今から4年前の本だし、「ワーキングプア」の現実を広く世に示すという点で一定の役割を果たしたとは言えるだろう。一方で、その問題の分析としては、ここから次のステップへの必要性を強く感じさせる本だった。