同調圧力のある社会で

日本における社会集団と同調圧力の問題について、面白い評論を読んだ。
詳細は後日に回すとして、簡単な感想を述べておきたい。
まず、旧時代のムラ社会的な同調圧力とは異なる、新しい同調圧力が生まれているという。世界のグローバル化は、新しい形の同調圧力だと説かれていた。リースマンの本が引用されていたが、それは割愛する。
そうした中にあって、共存ならぬ併存の新しいあり方を模索していくべきだと提案されていた。

今の日本の社会はどういう社会になっているのだろうか。
ムラ社会的な旧時代の集団形成とは異なる。価値観が多様化し、個人の自由が保障された社会。そのような自由さの中で、なぜか集団は同調圧力に罹患し、人々は苛まれている。かといって、孤立することができない。
今の人たちが、豊かなコミュニケーションや人間関係の構築に最大の価値を認める(SNSの隆盛が何よりそれを物語っている)のも、個人の自由と同調圧力の不自由さの中で引き裂かれ、かといって共有できる価値が見えずに右往左往する結果なのだろう。かといって孤立することもできない。
僕が思うのは、孤立する強さを持つことだ。孤立は必ずしも孤独ではない。自分の価値観や考え方を共有してくれる誰かの存在を想定できるなら、人は孤立はしても孤独を免れることができる。大切なのは、そういう誰かを想定できることなのだが、一つは読書によって解決できる。古今東西の書き手たちとの対話によって、そういう他者の存在を確信することができるからだ。
もう一つは、自分と似た考えを持つ人たちの集まるグループやサークルに所属することだ。学校や職場とは異なる人間関係を新たに築くこと。ネット時代なのだから、こうした様々な可能性が拓かれていいはずだ。(でも、僕はまだ、そういうチャンスを得られていない。様々なサークル、会に参加したが、どこにも自己同一化できなかった。自分を預けることへの性急さが、どこでも場違いな感じなのだ。という、そういう発想自体が無効なのだろう。もっと緩いつながりこそ、今の時代にふさわしいものなのかもしれない。この問題については、後日他のところで論じたい)
というわけで、孤立を恐れず、しかし孤独にならないように策を講じながら、自分を見失いようにしていく必要があると言いたい。
先日、引きこもり女性たちの女子会の話題をNHKでやっていて、気の毒に思ったが、このテーマは、実は現代において広い射程をもっていると思わざるをえない。
集団に溶け込んで楽しそうにやっている隣人も、実は同調圧力の不幸に苦しんでいるかもしれないのである。
誰も声をあげないので、不満の声が押し殺されているだけなのかもしれない。ちょっとしたはずみで、それらの不満は一挙に社会的な現象を引き起こしていく可能性があるんじゃないか、と僕は見ている。