江頭2:50の芸について

今日は夕方からずっと江頭2:50の映像を見ていた。
タモリNHKで賞を取った時、昔自分は今の江頭のような存在だったと述べた。
それで、この人は一体と思って、改めてネットで調べてみたのである。
江頭の芸は下品だし、表社会では顔をしかめられる類だが、しかし江頭の芸は誰かを傷つけているだろうか?
多分誰も傷つけていない。子どもに悪い影響があるだろうか?
常識ある大人にとって、江頭の芸は子どもに見せたくないものだろう。
でも、案外子どもは江頭の芸をそれほど酷いとは思っていないのではないか。
そもそも、芸人とは、これほど社会の底辺に自分を置くことだったのではないか?
昔のドリフターズの笑いは、「下品」だった。大人たちが子どもに見せたくない番組とも言われた。
しかし、時代が変わり、今彼等の芸は高く評価されている。
江頭も同じではないのか。
考えてみると、江頭は異端だが、その異端さとは「穢」の領域に彼が身を置いていることからくる。
多くのお笑い芸人が社会的に成功し、芸人であることが晴れて立派なことであるようになっている。
そこでは、芸人という「無縁・公界・楽」(網野善彦)の中世的漂白民のあり方が、あらためて意識に上って来る。
職業とは「晴」と「穢」に分けることができる。
芸能の民は差別される存在ではないけれど、どこか「穢」と結びついた、そして「穢」を「晴」に転倒させてしまうような祝祭的な存在でもあると思う。
江頭は、まさにそういう祝祭的な転倒をやっている芸人と言えるのかも知れない。
あれほど事件化されている芸人なのに、愛されているのは何故なのか。その答えも、きっとその辺りにあるのではないか。
そうすると、多くの「穢」とされる職業についても、もっと考えを改めなければならないかも知れない。
河合隼雄は、性をめぐる問題について「魂が傷つく」と表現したが、「穢」とされる性労働者は、「魂を傷つけている」と言って片づけてもいいものだろうか。第一彼らは、その労働によって糧を得て、家族を養ってもいるということをどう考えたらいいのか。(もちろん、そうではなく、河合が問題にしたような「魂を傷つける」から止めろと諭した少女の例があることはきちんと知っていなければならない。)
また、ゴミや糞尿収集のような労働についてはどう考えるのか。
「晴」と「穢」、あるいは差別というもの。こうした社会の背後に秘められた通念に対して、どう向き合っていくべきか。江頭2:50の芸を見ながら、そうした問題について、改めて思いを馳せた。