「自己」と「個人」

諏訪哲二氏の『自己チュー親子』を読んでいる。
「自己」と「個人」を区別する考え方に、大変説得された。
「そうか、そういうことだったか!」という感じ。
これまでウチダ先生のご著書で「等価交換」という言葉に何度も出会って、自分も知らずこの言葉を使って考えるようになっていたのだが、諏訪哲二氏もやはり「等価交換」という言葉を用いている。(諏訪氏の方が先だったのかも知れないけれど)

最近の「仕事論」が、「自己実現」の手段としての仕事ではなく、社会の成員の一人としての義務と責任を果たすという認識にシフトして論じられるとすれば、そこには養老センセーやウチダ先生をはじめ、諏訪哲二氏にいたる論客に共通するある認識が浸透してきているからなのかも知れない。それは、人は「自己」として生きるのではなく「個人」として生きなければならない、という認識である。
「自己」とは、全能感への飽くなき欲望の(他者のいない)世界に生きる私のことで、「個人」とは、社会の中で要請される「役割」のことである。「自己チュー」とは、「個人」になりきれない「自己」のレベルで生きることである。
「自己中心」も「自己実現」も、同じ「自己」に拘泥している点で、それは「個人」として生きることを拒否した後退した生き方なのだ、という。
かつては「自己」として生きることが称揚されていた。今もそういう考えは残っているだろう。
僕がコドモの頃は、管理教育批判がメディアの趨勢だったし、本音と建前を分けることが「偽善的」であり、いつでも「本音」でぶつかることが善とされていた。それは「単一の自分」という思想である。しかし、この、いつでもどこでも単一の自分は、幼稚な「自己」へと収斂していく運命にある。「自己」は不変だから。
今の子どもたちは一枚岩の自分(自己)しかないから、教師や地域の大人に対してもタメ語でくる。
あれは、礼儀を欠いているというより、彼等なりの「誠実さ」ではないかと僕は思う。誰に対しても、いつでも、どこでも、同じ位相にある自分が発する言葉だと示そうとする切ない努力なのかも知れない。もちろん、そこには未熟な「自己」意識があるだけだ。
「自己」に止まる限り、人は社会に出ることを忌避する運命にある。社会は「個人」たることを強要するからだ。掛け替えのない「自己」である人よりも、多数のうちの一人として役割を引き受ける「個人」しか、社会は認めようとはしない。いつも自分の都合ばかり言うような「内面」が全てであるような子どもは「生徒」の立つ位置を踏み外している。自分の都合や「内面」を抑制して、場の求める役割をきっちりと引き受けられる子どもが「生徒」として、より高い教育的営みに参与し得るのである。
自分の学生時代を考えれば、かく言う自分もまた「ひきこもり」みたいなものだった。社会に参加せず、肥大化した「自己」に閉じこもっていたのだから。
多かれ少なかれ、誰もがこうした「自己」と「個人」の葛藤をくぐり抜けるよりない。その程度は人によってグラデーションを描くのだろうけれど、早々と「自己」を断念して「個人」としての義務と責任を負う覚悟を持てた早熟な人間だけが、経済資本と文化資本の絶え間ない交換のゲームに参入を許されるということか。