『自己チュー親子』を読む

諏訪哲二著『自己チュー親子』を読了。
この書の優れた点は、「自己」と「個人」の対比によって、現在の子どもたちや若者たちの(というか社会全体に瀰漫している)自己形成に関する喫緊の問題点をザックリと切りさばいたところにあるだろう。
この視点は、実際役に立つ。
近代は、人に「個人」であることを要求する。「個人」とは、他者との関係の中で規定されてくるような自己のことである。世間に生きる人間と言っても同じことだろう。
そもそも「人」ではなく「人間」と言う言い方が生まれたのも、人は他者とのネットワークの中でこそ「人」になれるという、この国の事情が関わっている。かつては、そのネットワークは「世間」であった。だから、世間に認められない人間は「村八分」にされ、被差別待遇を受けた人々は「人非人(ひとひにん)」と呼ばれることになった。養老孟司によれば、「人非人」の最初の「人」は、自然存在としての(生物学的)ヒトのことであり、後にくる「人」は世間によって認められた存在としての「人」を表すとのことである(『死の壁』)。
そうであるなら、この国では、社会的存在となって初めて「人」となる資格を得るというシステム(というか圧力)を初めから内在させてきたと言えるのではないだろうか。
このシステム(圧力)は今も有効であり、掛け替えのない自分(自己)であり続けるような人は、結局社会に受け入れられない。今のニートは、形を変えた「村八分」の形態と言えるかも知れない。
要するに、今の社会で生きるには「個人」になることを要請されるのだ。
学校の仕事とは、子どもの無定形な「自己」を「個人」に鋳直す営みとも言えよう。
ただ、『自己チュー親子』の論理で行けば、子どもの「自己」を認めず、非合理で理不尽な押し付けこそ教育のモットーだということになる。
それはある意味で正しいと僕も思う。
しかし、それは戦時の軍国主義的教育と同じではないか?という曲解も生まれやすい。
対話よりも「従わせること」に価値を置く教育は、戦後民主主義が(表向きは)封印してきた身体的統率への欲望を発動させてしまう。事実、子どもを意のままに従わせる為に、強権的な権力(腕力)を用いることを厭わないという教師が現れてこないとも限らない。そして、戦時中の将校たちがそうであったように、権力的統率(卑近な言い方をすれば「体罰」による統率)には、ある種の快楽があるということも忘れてはいけない。『自己チュー親子』はそういった教師に、理論的な根拠を与えてしまう恐れがあるのだ。
おかしな言い方かも知れないけれど、僕は体罰を部分的には容認する立場である(僕自身は体罰をしたことはないけれど)。
ひっぱたくだけでも「体罰」と言われる世の中である。
しかし、自分の子どもが許しがたい行動を取ったとき、「体罰はいけないよな」と理性的に判断して子どもを叱る親がどこにいるのだろう。普通の親なら、ひっぱたこうが、殴り倒そうが、とにかく涙にくれながら子どもを叱り飛ばすのではないか。
そういう意味での教師の叱りが、時に肉体的な形を取ることもあるんじゃないか、と思っている。親がそうするような意味でである。現場にいれば、実はしょっちゅう目にする光景なのだ。
体罰」というのは、肉体的苦痛を与えることを至上価値と見做すような態度のことである。それこそが「教育的営為」であると錯覚すること、と言ってもいいかも知れない。
そうではなく、子どもの行為を静止するために緊急に要請されるような態度として、肉体を行使する場合があるということだ。それは「教育」かどうかは分からないが、少なくとも、厳密には「体罰」とは異質なものだ。世間はそれを体罰として断罪するだろうけれど、教師の良心と責任において、体罰ではない「暴力的」な肉体衝突は必要不可欠なのだということは言っておく必要がある。また、それを回避した場合、教師の良心は痛む(傷む)のである。
子どもを公共性と自立を伴う集団の一員とするために、過渡的に肉体的衝突も止むを得ないのではないか、ということだ。現在の社会が、それだけの権限と責任を教師に持たせないとするなら、そもそも教師の責任を追及するなよ、と僕は言いたい。