小5男児転落死・さいたま地裁

「バス運転の引率者に有罪=ドアロック怠る-小5男児転落死・さいたま地裁」(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090311-00000048-jij-soci
の記事を読む。
ちょっと悲惨な事件だ。
高速道を走っているときに、小学五年生の男児がドアを開けて車外に放出され、死んだという事件。
運転手だった男性に、過失責任があるか?という裁判である。(以下は、このニュースに接したときの感想を率直に述べたものである。その点ご理解した上でお読みいただきたい。)
この男性に責任はあるだろうか。
僕は「ない」と思った。
なぜなら、小学校五年生ともなれば、高速道路を走行している車の中で、ドアを開けちゃいけないくらいのことは分からなければならないはずだからだ。
しかし、それでは世間は許さない。
小学五年生では、走行中にドアを不注意に開けてしまうようなこともあるのだから、事前にドアロックしていなかった大人が悪いわよね、とでも言いたげである。
本当にそうだろうか。小学校五年生では、そういう判断がつかないのだろうか。
答え。判断がつかないのだよ、実際。
問題は、それを良しとするか否か。そこに、この裁判の分かれ目がある。
今回の判決は、要するに「妥協案」なのだろう、と僕の目には映る。
高速道路を走っている車のドアを開けちゃいけない(自分が死ぬ)ということを予見できないような子どもが実際に多くおり、日々子どもと接している我々教師なら当然予測可能ではあるが、教師ではない一般の方が、予測不能な子どもの恐るべき自殺的行為の責任を負う必要があるか?といえば、勿論ノーである。であっても、「無罪」では世間が納得しないだろう。だから、最低限の量刑に抑えた「有罪」の判決だったのだろうと思う。事実上は「無罪」で然るべきだ。
この判決は、裁判官たちはギリギリの有罪で留め置くよう努力したに違いなかろう、と僕は予想する。
世間は大人の監督責任を言う。(実際同僚も、仕方ないよね的な反応だった)
結局この裁判の判決は、世間が子どもをどう見なすのか、その総意を問うものであったのだろう。
子どもであっても、自分で判断する能力があると考えるのか、子どもには自分で何も判断できないし、その力もないと考えるのか。
先の判決は、今の世間が後者に与するということを示したのである。