「知るを楽しむ 星野道夫」を見て

NHK教育の「知るを楽しむ 私のこだわり人物伝」を見た。
星野道夫の第一回は写真家今森光彦氏の話。
もう、涙を流しながら見ていた。
なんでこんなに涙が出てくるのだろう、というくらい。
ぼくにとって星野は、あまりに尊い存在なのである。
ちなみに、今住んでいる場所は、星野の生まれた場所から徒歩数分の所にある。
この地に住むことを選ばせたのも、星野道夫がかつてここにいたから。
ぼくが学生時代に住んでいたのは、埴谷雄高への憧れから、彼の余生を送った土地の少し離れた界隈であった。
そう考えてくると、ぼくは自分のヒーローの住む土地に住んできた。
面白いことに、ぼくは二人の著作を中途半端にしか読んでいない。
にもかかわらず、ぼくは彼等が自分のヒーローだと直感していた。
なぜだろう。

偉大な人は、語り部を生み出す。
今森氏は、星野を雄弁に語る優れた語り手であった。それは、今森氏もまた、星野と同じ何かを共有している人だったから。
優れた人は、孤高などではなく、実は多くの人にとって自分との共通した何かを発見できるような存在なのだ。その意味でもっとも「大衆的」であるという逆説を背負っている。それが「偉大」さを担保しているのだ、と言えるかも知れない。
星野は、自然と人間のつながりを通して、人間を深く掘り下げて考察した写真家と考えられている。全くその通りである。異論を差し挟む余地などなく。
また、写真は「自己」表現などではない、ということも分かってくる。星野は「自己表現」など思いもよらなかったにちがいない。なぜなら、表現すべき「自己」こそ不明な何かであったから。
人間の生存の実相を外側から見る視点で写真を撮り続けたという意味で、星野は「超越論的視点」に立つことを、写真を仲立ちとして求めたのであり、それは「自己」の外部いわば「個人」としての仕事であったことを際立たせる。(諏訪哲二の議論に立てば、そういえる)
こうした「個人」に立脚した態度によってこそ、写真家の「自己」に即した表現が初めて可能になるのであろうと思う。