子どもの問題

今日は大変悲しいことがある。
子どもたちのことだ。
学校は子どもたちが勉強するためにある。それを疑う人はいないだろう。
勉強とは何か。
それは、生徒が自己全能感をむきだしにした「自己」に埋没することなく、社会性をもった「個人」へと変容することだ、ということを教えられた。(詳しくは諏訪哲ニ氏の『自己チュー親子』を参照ください)
勉強とは、世間で言われているような「学力向上」とは違うのだ。
教師の教育力とは授業力であるということが言われ続けてきた。
確かに、そういう面もある。(諏訪氏は、授業の意味を「近代的個人の立場に生徒を立たせること」という端的な表現で示している)
しかし、今の時代状況の中では、教師が週に数時間しか受け持たない授業の中ではカバーしきれない、多くの子どもたちの問題が存在することは事実である。
こうした問題に向き合うことを優先する教師は、きっと授業の可能性と限界をよくわきまえている。
というよりも、授業で目指すことが、生活指導や学級指導や給食指導や清掃指導や委員会指導や部活指導に伏流していることに気づいている、と言うべきかも知れない。

子どもの問題とは何か。
複雑多様な問題を、乱暴に一言でまとめれば「人間関係の病」ということになる。
子どもたちが作る集団は、勝手に「腐る」ものだと思った方がいい。
放っておいてはいけないのだということを、今日は痛感させられる出来事があった。
子どもたちは、集団の力学に順応しながら変容している。落ち着きのない子ども、乱暴な子ども、無口な子ども、それぞれがそれぞれの方法で集団に適応しようとした結果なのだろう。
子どもの「自己チュー」と無責任ぶりを嘆いてみても仕方がない。それは、彼等を取り囲む大人、つまり私たちが、ロールモデルを示してしまっているだろうからだ。
親と教師がタッグを組まなければならないのは、まさにこの時かも知れない。すなわち、集団の変異に気づき、その問題をどう解決していくべきか、この点をめぐってこそ親と教師は協働でき、またそれ以外に親と教師の連帯などあり得ないあろう。