中川昭一氏について

中川昭一氏の飲酒会見問題が冷めやらない。
彼がアル中なのだとして断罪することが支配的な今日のマスコミ報道に対しても、いささか食傷気味の感がある。
こんなことになるくらいなら、酒など飲まねばよかったのに、彼はなぜ飲んで会見なんぞに出たのか。
そこがいまいち解せないのである。つまり、将来的な予測を無視して無謀の行為に出た、ということの本当の意味は依然藪の中である。彼が酒に酔った勢いで判断を逸したのだとかなんとかいうのだろうけれど、それは見当違いもいいところだとぼくは思っている。
果たして本当にそうなのか、という疑問を持つことが大切だ。
彼はそもそも将来的な見通しに立って行動する政治家だったのだろうか。
と言うのも、そこに「時間モデル」と「無時間モデル」の問題があるような気がするからだ。
時間モデルというのは、簡単に言えば将来のヴィジョンを持つことによって現在の行動が規定されてくるという生き方のことだ。それに対して「無時間モデル」というのは、将来的なヴィジョンなどまるで「アウト・オブ・眼中」であり、現在を止まった時間と仮定して、今のみを快楽的に生きる視点でのみ考える態度のことである。
内田樹氏の論によれば、無時間モデルとは、等価交換を原則とする消費行動の謂いであり、時間モデルとは、将来を担保として現在の行動を選択、規定していくという態度のことである。いわば、判断の保留、行動の留保、将来への見込みと、予測を前提として規定されてくる現在的行動をとるとき、人は時間モデルに則って行動していると言うことができる。

中川昭一に話を戻せば、彼は「無時間モデル」に立って行動する政治家だったということであろう。
将来予測に立って現在の自分の行動のあり方を規定していくタイプではなかったということ。
彼が酒を飲んで記者会見の席に立ったということは、ルールに反したから不味いのではない。「無時間モデル」で行動するタイプの政治家だったということが露見してしまったから、不味かったのであろう。
彼は、将来予測ができないタイプの政治家だったということだ。
別の言い方をするなら、今時の「お子様」と同じ行動様式を持った方だったということ。
彼は、お家に帰ってしこたま飲めば良かったのだ。それなのに、外遊先で一杯やってしまった。
つまり、お子様の行動をしてしまいましたでちゅね。
そういう僕も「お子様」である。決して中川氏を批判できる立場ではない。

酒を飲んで失態を晒したことは、彼の政治家としての沽券を台無しにしたけれど、人間として終わったわけではないのだから、自分を再生するために出直してほしいと思う。