空想の余地が失われた時代の中で

今のように情報が無尽蔵に入ってくるのは、確かに便利かもしれません。その反面、マイナス要素として、空想の余地がなくなってしまったことが挙げられると思います。

「昔は今のように情報がなかったから、ギターを弾くのに、いろいろな試行錯誤が必要だったけれど、情報が多い今よりかえって幸福な時代だった」というようなことを、以前Charが話しているのを印象深く覚えています。

同じようなことが、他にもたくさんあるのではないでしょうか。

例えば、電灯がない時代、人は夜の暗闇の中で、瞑想に近い状態を日常的に経験していた。けれど、現代のように夜に暗闇がなくなって、人は生の一面を見失ってしまった。

というような話も聞いたことがあります。

確かに僕の世代でも、子供の頃に本当の暗闇というものを経験することがありました。

子供は暗闇の中で、かなり深い体験を味わったりしたのではないでしょうか。

今の子供達が、果たして同じようなことを経験しているかどうか。

(経験がある方が偉いと言いたいわけではないけれど、私たちは「意識」の世界に注力しすぎて、「無意識」の世界を忘れてしまったのではないでしょうか。これは「ファンタジーの世界」と言ってもいい気がします。ファンタジーを失ってしまった。それは後で大きなしっぺ返しがやってくるような気がします。)

「ファンタジーの世界」や「無意識の世界」、「暗闇」というものを人間は心の未開拓の荒野としてどこかに置き去りにしてしまったのかもしれません。このことは、現実主義や合理主義の世界観に人間を閉じ込めた結果でもあります。そのことによって、人はどこかバランスを見失ってしまっていないか、というのがここでの問題意識です。

もう一度、「ファンタジー」を取り戻そう、というとなんか安直な結論のような気もしますが。

大人になって、仕事や人間関係、今の政治などとどこかで折り合いをつけながら生きているうちに、どうもやるせない気持ちになってきます。心はもっと大きなものを探し求めているのに、現実の瑣末な問題にあくせくし、いつの間にか視野も狭くなり、生の探求に興味を失ってしまっているように思います。そして、風任せに飛ぶ凧のように、ふわふわと定まらない生活をしているような気がしてきます。私たちは、可能性よりも時代の制約の中で、窮屈な自己の形を作りだし、それに束縛されて生きているのかもしれません。

答えはどこにあるのでしょう? 自分の中に答えがあると言われます。

自分のどこに答えがあるのだろう? それこそ「無意識」「ファンタジー」の世界に立ち戻るしかなさそう。