自分の分に応じた「表現」との出会い

本や映画は、読者や観客に多くのことを教えてくれるが、本当に優れているのは読者や観客の方だろう。
読者や観客の人生の中で培われた経験や実感を、読者や観客自身は言語化(対象化)できていない。その形にならない思いに形を与え、立ち止まらせて、考えるきっかけを与えてくれることが優れた本や映画の条件なのだと思う。
だから、本や映画の中にこそ高邁な思想があり、読者や観客はその高みに届こうとするわけではない。逆だ。読者や観客の心の中にあるものに、本や映画が届こうとするのである。少なくとも、優れた書物や映画やドラマは、そういうものなのではないだろうか。
人の数だけ、様々な思いや思想がある。しかし、社会の流れの中で、多くは黙殺される。自分でも気づかないうちに、黙殺させられてしまうものだ。物書きやドラマの作り手は、それを形にする。
黙殺されてもかまわないような幼稚な思想もあるだろうし、社会の流れが時に暴力的に沈黙を強いる場合もある。本人が表現に無自覚だったり躊躇してしまえば、結局は無意識の沈黙となるだろう。いずれにしても同じだ。
自分の中に、形を与えられていない感情や思い、思想が眠っているのなら、それを引き出すにふさわしい表現に出会って、それを掘り起こしたり形にしたりするべきだ。分相応な表現に出会うべきだ。しかしそれは偶然というより、運命的・必然的な出会いなのではないだろうか。人は分相応な表現にしか呼応しないようにできていると思うからだ。
あなたは、いったいどれほどの「表現」と出会ってきただろうか。
わたしはこれから、どれほどの「表現」に出会えるだろうか。
(『冬ソナ』第12話を見終えて記す)