厭世と希望

暗い気持ちだ。
仕事はひと段落したものの、終わったという解放感も喜びもなく、なんだか虚しさだけを感じる。
文化的雪かきならまだいいが、不毛な雪かきをしていただけではないのか?という疑念を拭えないからだ。
事実、今日はあるデータを集約してみたところ、結果は期待を裏切るものだった。データの解釈に主観的誤謬があるかもしれないが、こんなものかとがっかりしたことは事実である。
『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』を読み始めている。この小説も、出だしから気持ちを沈ませる。面白くないという意味ではない。というか、むしろめちゃくちゃ面白い。しかし、気が重くなるようなテーマである。
今のこの国の文化状況は、とてつもなく空洞化している気がする。なぜなら、言葉が死んでいるように思うからだ。
誰と話してもつまらなく感じる。テレビで芸人が喋っていても、何が面白いのだろうと薄ら寒く感じる。
政治家たちの言葉に生気がなく、論理性より取り繕いの修辞に堕している。そんな政治家たちが無責任な言動を繰り返していても、世論の支持は落ちない。景気や経済成長にばかり関心が傾き、奥深くにある問題や、将来起こり得る頭打ちの事態に誰も目を向けようとしていない。とりあえず目の前にある2年後の東京オリンピックで騒いで、遠い未来の痛みから目を塞ごうとしているかのようだ。
本音を語る言葉が少なく、余所行きの言葉が横行している。社会は清潔さと潔癖さを求めすぎ、実情を離れた建前の言葉に終始していないか。社会の表面がツルツルの清潔さで覆われる一方、人々の欲望や渇きは内部に入り組み、奥深くで屈折した暗躍を演じている。
社会の流れについていけなかったり、つまはじきにされた人たちは、社会の表面から見えない存在となり、事件化してはじめてその存在が表面化する。そんな社会になっているように感じる。
これは別に日本に限ったことでもないのかもしれないけれど。
最近、経済と貿易とナショナリズムの関係について考えるようになった。
とても興味深い番組だ。
今の米中、あるいはEUと米国との間の貿易をめぐるかけひきも、資本主義とナショナリズムの問題と関係がある。そして、IT革命を経て、AI革命が起こると騒がれている現在の時代の流れも、産業革命で人力が機械にとってかわられた過去の歴史を繰り返しているようにも見える。
話は変わる。
核についてだ。
北朝鮮は核を手放そうとはしないだろうと言われている。核のおかげで米朝首脳会談が実現し、対話は北朝鮮に有利に運ばれている。それもすべては核のおかげだとすれば、核はまるで「打ち出の小づち」と言えるだろう。核廃絶を唱える立場の一方で、こうした核による世界の緊張状態にとって核を持つことが世界の均衡を保つ方法なのだとも言われる。
果たして核とは、現代世界においてどのような意味をもつものなのか。
外交や安全保障をめぐっての核についての問いは尽きることがない。