虚無主義に抗する

今は、これまでの常識が通用しなくなり、あらゆるものに対して疑いの眼差しを向けなければならない時代になっている。それが、懐疑主義を生み、その行きつく先が虚無主義(意味あるものなんて、何一つないという考え)か、冷笑主義(真実なんてない、真実を求めようとする行為は馬鹿げている。茶化そう)といった態度が横行することになる。
しかし、それでは何一つ生産的なものは生まれてこない。
生れてこなくたっていいという人は、虚無主義あるいは冷笑主義の住人である。
人はやはり、どこかで、意味あるものを自分の中につかみ取っていく必要があるのではないか。
虚無主義冷笑主義に抗っていくことが必要だ。
そのためには、基本的な議論スキルを身に付ける必要があると思う。
そうでないと、簡単に虚無主義冷笑主義に陥ってしまうからだ。

都知事の会見があった。
混迷の原因について自ら釈明する会見だったのに、混迷を深めたとして現都知事の批判をしたのは、いったいどういうことだろうか。
これは議論の基本を踏み外している。
混迷の原因を追及された人は、自らの潔白を主張するならよい。
しかし、その説明が不十分なのにもかかわらず、(つまり、トップとしての自己の判断の責任というより、都全体の責任と言い放って)自ら混迷の原因を作っていたとするなら、その責任を棚に上げて、現職知事のせいにするのは、どう考えたって「論点ずらし」にしか見えない。
老人の戯言を聞いているような感じしかしない。
これが都のトップだった人の発言かと悲しくなるが、だから石原都政がダメだったと早急に結論づけるのも、非論理的だ。今の彼の言動から、遡及的に過去を評価するのは、論理的に間違っていると思うからだ。
彼は若いころは素晴らしい政治家だったが、今は年老いて頭が少しボケているのかも知れない。
だから、フェアな議論をするなら、前都知事の現在の言動に対して論理的な批判がなされなければならない。
感情的にではなく、客観的な批判を。

そもそも、論理的に通らない話しが、さも論理的であるかのように罷り通ってしまうのは、都の行政レベルで十分あり得たと考えられる。
議会も、どの程度機能していたのか、メディアや世論は石原都政に対して、どのように対峙してきたのか、そういう個々の検証が必要だと思う。
一言でまとめれば、要するに、「空気」に支配されていたのではないか。
行政や政治が、空気で動く。
この国は、実は何も変わっていないのではないか? そんな気がする。
僕の周りを見回したって、「空気」が支配しているように思う。まともな言論などないかのようだ。
言論らしきものはある。しかし、まがいものだ。本当の言論はもっと時間がかかり、骨が折れるものだ。
しかし、実際は時間と労力をかけている余裕もなく、だから時間と労力を割愛する代わりに、安直に空気の支配を受け入れている。誰もが妥協しながら生きている。そのストレスを感じないように、うまく立ち回っているが、所詮虚しい。
こう書いているうちに、自分もまた虚無主義に陥りそうになってきた。