下流志向についての試論(1)

子どもたちは、二極化してきています。
一つには、学校的価値観を内面化し、従順で、学習意欲を持った子どもたちがいます。こうした子どもたちは、教師に対しても大人の振る舞いをし、対話が成立します。
一方の極に、教師に対して距離を置き、かつ従順ならざる態度を示す子どもがいます。こうした子どもたちは、他者迎合的で、学習の主体的動機を持っていません。学びから逃走しています。
かつても、教師に従順ならざる子どもたちはいたはずですが、そうした子どもたちは集団形成の要にはなりえなかった。ところが今は、そこに逆転現象が生まれています。「学びからの逃走」をしている子どもたちが、集団形成の中心になっている。逆に言えば、学校的価値観を内面化したような子どもは沈黙するしかない状況になってきている。
なぜ、こうした事態が生まれてきたのでしょうか。
そもそも、彼等の主観の中では、それが「学びからの逃走」として捉えられているのでしょうか。
内田樹氏の議論では、現代の子どもたちは、自らをまず「消費主体」として確立する、という認識が出発点にあります。かつては家事労働の一翼を担うことで、自分の存在を大人に認められた。「労働主体」として自己を確立した。それに対して今の子どもたちは、消費者の視点を持つことで早熟する。
学校という場において消費者として振る舞うことは「学びの死」に他ならないけれど、等価交換を原則とする消費者的視点においては、学びも「通販」みたいなものである。黙って授業を聞く「苦役」に対して、教師はどのような労働対価を支払ってくれるのか、それが子どもたちの論理性なのだと言うのです。そして、苅谷剛彦氏を引用して、豊かな文化資本を享受できなかった下層の大人たちを見て育った子どもたちが、学校的価値観から努めて逸脱することに自己全能感を見出すという、倒錯的な現象があるのだと言います。子どもは注意力が足りないから教師の言葉を聞き落とすのではない。そうではなく、涙ぐましい努力の結果として、授業を聞かないようにしているのだというわけです。
これは、確かに説得力のある仮説です。
しかし、いくつか疑問もある。
子どもは、努力して授業中遊んでいるというより、やるべき課題を先送りして、自分を縛る一切から自由な今を手に入れようとしているように見える。それは、易きにながれているだけではないか、と。
昔だって、そういう子どもたちがいたはずです。僕の時代にもいた。
しかし、そういう子どもたちは、受験サバイバルを賢く生きられない弱さを露呈していて、集団形成の要にはなりえなかった。賢い連中が、澄ました顔をして、集団上層に君臨できたのです。
今は、そこが違う。学びから逃走している子どもたちが、集団を厚くしているのです。