吉本の笑いに抗う

今日職場で、この人(↓)に似ていると言われました。
そうか、俺ってこんな感じなのかぁ。

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休日の過ごし方にいつも反省させられます。
僕としては休日はしっかりと勉強に明け暮れたいのですが、実際はダラダラと過ごしてしまいがちで……
休日であっても、自宅にいると何もできません。だって家って「ゆっくりする」ための場所じゃないですかぁ。そもそも家で勉強しようということ自体が誤っています。勉強したけりゃ、家から出て、図書館でも喫茶店でもいいから、どこか別の場所に行きなさいというもの。これからは、朝早起きして、24時間営業のファミレスとかに行くことにします。
とにかく、休日はあれもこれもやろうと気負い勝ちで、そのわりに何もできずじまい。それで自己嫌悪に陥る悪循環が続いています。そんなにたくさんのことは出来ませんよね。誰だって。
昨日は、桂三木男さんと林家木久蔵さんの高座を聞きに行きました。改めて話芸というものの魅力を確認したところです。つまり、話というのは鍛錬というか、積み重ねの技なんですね。
今のお笑い番組やバラエティ番組で芸人が喋っているのとか、すべては「芸」として目指されて、修行の結果として行われているものだということ。
20年近く前に、僕は仲間内の会話がある種の話芸のシステムで行われていることに、うすうす気づいていました。そういう会話を周りの人たちが目指しているらしいということを。僕は奥手でしたらから、なぜそんな性急な会話をしなければならないのかわからずじまいでした。
あれから20年。今も職場の若い人たちは、本当によく喋ります。でも聞いていると、中身はあんまりない。空白を埋めるためだけの会話です。でも、そのことに命を懸けているんじゃないかと疑いたくなるくらいです。日本のお笑いやバラエティ番組は、一般人に笑いの話し方を提供し、大きな影響力を持ちました。その結果、テレビの番組は、お笑い(トーク)一辺倒になり、質として貧困になっていったのは間違いない。これは、日本のトークが、吉本的なものに集約されてしまったからだと思います。
日本にはもっと多様な話芸があったはずです。しかし、今の話芸は、ボケとツッコミによる関西漫才発のものになっている。これが難点のその一です。
テレビに階層化が生まれたのは、同時に国民の間にも二つの階級が生まれたことを意味していると思います。知的階級と大衆階級というべきもの。その階級差を生み出したのは、吉本的な話芸だったのではないでしょうか。
紳助さんのトーク番組や、若手芸人向けの講義がYouTubeで見られます。すごく面白いし、理論的でよく分かる反面、こんなダマしの芸にひっかかるなんて悲しいなぁ
こんな魂胆に騙されていいものかな?と疑念を持つことも事実です。
ただ、紳助さんはとても正直な人なのでしょうね。ある意味よく分かる。多くの人にとって抗えない欲望を正直に肯定しているというところも大きい。
僕だって、こんな芸をやって大金を手にしていい女抱きたいという紳助的な生き方に共感する部分はかなりあります
ただ、さっきから言っているように、現代日本の社会が、吉本的話芸によって著しく損なわれたんちゃうかという疑念を持っている僕としては、そこのところは譲れない。吉本的なものを受け入れた現代社会の問題ももちろんあるので、そちらの分析をしないとフェアではありませんが、今の時代、誰もが皆吉本的にしか喋れないということの不自由をもっと感じて、そこから自由になるべく努力する必要があると思います。