母艦ノート

美崎栄一郎さんが『母艦ノート』と呼んだ、生活の中心にあるノート。主にビジネス用途で語られることが多かったけれど、私たちの生活はビジネスだけにあらず。私たちの生活はプライベートも含めて様々なフェイズがあり、それらは判然と区切られているわけではない。かつて樋口健夫さんは人生を航海に喩えて‘地図の無い航海は危険である。しかし、ノートは海図となって、あなたの進むべき道を照らし出すはずだ。’という意味のことを述べていた。
人生は、海図の無い航海に似ている、という指摘はもっともだと思う。僕たちは、この世界が何であるかを了解する前に、この地球に産み落とされ、しかも死ぬまで了解不可能にちがいない。メディアの言葉を安易に信じるわけにもいかないし、先生が言ったことの全てを鵜呑みにするわけにもいかない。結局、人生は、その人にとっての納得解を得ることが大切なのだと思う。そうであれば、人によって答は異なることになる。唯一の正解などないのだ。自分にとってそれが正しいのか、価値があるのか、を慎重に吟味しなければならない。でなければ、他人に流されることになるだろう。
さっき「慎重に吟味する」と僕は言った。この慎重な吟味こそ、ノートの出番だと言う気がする。ノートに書くことは様々だ。何を書いて(描いて)もいい。昔であれば、自分の将来の希望や、現在の不安をしきりに書き殴っていた。10代は少し神経症的だったように思う。書くことで、神経症的な精神の病を癒そうとしていたのかも知れない。今の僕は日々の記録を書き留めるのが好きだ。毎日がただなんとなく過ぎていくことに恐怖を感じる。できれば、何でもない一日も細大漏らさず書き残しておきたい。そういう気持ちから、日記的な文章を書くことを自分に強いている。それも、ちょっとした神経症の表れなのかもしれないけれど。
 
ノートはB5の大学ノートを使っている。
子どもの頃から慣れ親しんだノートは、B5の大学ノートだ。このサイズは、何か特別な感じがする。日本では、B5というサイズは、誰もが通る道のはず。これは僕だけの拘りではなく、おそらく日本の誰もがイメージするノートの形なのだ。
もちろんこのサイズでは、外で持ち歩くには不便である。ポケットに入るわけでもないので、近所のコンビニに行くときにも持って出るというわけにはいかない。このノートは、自宅の書斎待機を運命付けられている。
だからこそ「母艦ノート」に相応しいともいえるだろう。
僕は、自宅に一冊の母艦ノートを持ち、フィールドでは出店のようなノートとメモ帳を駆使してフロー情報を拾い集める、というイメージを持っている。
いずれは、母艦ノートに集約することになるだろう。
そして、フィールドのノートやメモ類はいずれ廃棄されることを前提に、手当たり次第なんでも書くのである。手帳はスケジューリングに特化したノートと考えている。
メモは、あらゆるフロー情報の中から、琴線に引っ掛かったトピックを捕まえる役割を果たす。たとえば電車の中吊りに面白い記事を見つければメモしておく。そんな感じだ。気づきや「!」「?」などもメモしておく。後で母艦ノートにまとめればよい。
最近は、この母艦ノートに、日記的な記述以外にも、
(1)観た映画やドラマの記録
(2)外出した街の記録(フィールドでは旅ノートに記録してある)
(3)読書記録
(4)その月の出納帳
などを特設ページを作って記入している。
こうしておけば、家計簿(小遣い帳)を別立てで用意する必要はない(俺にとっては)。また、読書ノートなども別立てで用意する必要はないし、こうした特設ページがインデックスの役割も果たしてくれる。
今のところ勉強ノートまで統合しようとは思っていないし、勉強ノートについて考えなければならないほど勉強もしていないのだけれど、いずれは、勉強ノートについても考えたいとは思っている。これは今の野望である。
現在の手帳&ノート構成は次のようなものになるであろうか。
(1)能率手帳
(2)母艦ノート(B5ノート@書斎)
(3)A7リングメモ(野外での情報収集&ツイッター的役割)
(4)A6ノート=所謂100円ノート(野外での情報収集&