ノートは「一冊にまとめる」派or「多ノート」派?

ノートは「一冊」より、複数冊がよい
ノートは「一冊」にまとめよ、と仰る方がいます。メモや記録、アイデアなどを分類しようとすると、分類は破たんしやすく、時系列こそが最もシンプルで絶対なのだ、と。
「一冊にまとめる」派の主張が時代の趨勢だったように見えていましたが、今はどうなんでしょうか。
この主張とは反対に、ノートを複数併用する「多ノート」の考えを打ち出していたのが、和田哲哉さんでした。
和田さんは、文房具を単なる知的生産ツールとしてではなく、雑貨としての魅力に焦点を当てた方だと思いますが、「多ノート」という考え方は、知的生産についての優れた知見だと僕は思っているのです。
そもそも、私たちの情報生産は、PC、スマホ、紙の手帳・・・・・というように、多くのツールにまたがっており、デジタルツールもそれぞれをノートと見なせば、私たちは選ばずしてすでに「多ノート派」ではないか?と和田さんは言います。

「1冊に時系列で」は神話
そもそも、時系列で書かれたノートは見返すチャンスがどれくらいあるのでしょうか。
僕はこれまで、ノートを見返すことは皆無でした。ごっちゃに記述されたノートから、テーマに沿ったメモを探し出すことは、それだけで大仕事だと思います。また、ノートにタグを作り、PCで検索できるようにするという提案もあるようですが、それってつまりアナログな時系列管理の限界を示していませんか?
アナログなノートだからこそ、書くことが即整理になっており、書いた時点で情報が分類されていることが望まれます。
そんなことできるのか?という懐疑から、「時系列で」「一冊がシンプルで長続き」という意見が生れてきたのだと推察します。
しかし、そういう考え方をする方は、何もかもをノートに背負わせようとしすぎていないでしょうか?
自分の人生のすべてをノートに記録しておきたい、という壮大な夢というか野望のようなものを感じてしまいます。

野外では雑記用のノート一冊で
雑記用のノートは一冊で構わないと思います。
しかし、ノートに書く事柄は、多くの場合何等かのテーマ性を持っているのが普通ではないでしょうか。
とすれば、ノート一冊につき一つのテーマで、というのが理想だと思います。
そこでの不安は、毎日何十冊のノートを持ち歩かなければならないのか?ということ。
また、思いつきを書くときは、即メモをしないとアイデアが雲散霧消してしまう。どのノートに書くか考えているうちに、アイデアが消えてしまうのでは?と心配する声も聞こえてきそうです。
でも、それらはやはり考えすぎだと思います。
外に持ち出すノートは、せいぜい
・紙のスケジュール手帳
・メモ帳
・ノートPC
が社会人の一般的な手帳&ノート構成かと思います。
それに、一冊雑記帳を加えればいいのではないか。つまり、紙の媒体は、手帳・メモ帳・ノートの三冊にする。そうすることで、外でもカバンが重くなることを気にせずに、快適に過ごすことができます。
また、メモ帳には、フィルター機能があります。日々大量に発生するTO DOや、ちょっとした思いつきはメモ帳に書きなぐり、消化したタスクは紙ごと捨ててしまいます。未解決の案件や、長期的なプランがノートに移動してくる。このあたりは和田さんの本にくわしく書かれていますので、ご参照を。

雑記帳をフィルターにして、複数のノートを育てる
メモ帳のフィルター機能をノートに敷衍して考えると、フィールドのノートもまた情報を取捨選別するフィルターの役割を担っていると思います。つまり、野外のノートは一冊ですから、仕事上のメモやアイデア、プライベートの趣味関連のメモやアイデアなどが、混在したノートになるでしょう。それを今後も残しておきたい情報なのか、さらに発展させることのできるアイデアなのか、精査する機会はなかなかないものです。しかし、多ノート使いで、休日に自宅やカフェでノートに転記する時間を確保できるなら、多ノートという仕組みはとても充実した知的生産に成り得ると思います。
まず、仕事やプライベートでの自分の思考のプロセスを振り返り、情報を整理することができます。その時、雑記帳はフィルターとしての役割を果たすことになるでしょう。また、情報をテーマ分類して各ノートに転記していくことで、自分の思考もまた整理されると思います。完成されたノートは、そのテーマに関する自分の軌跡そのものになってくれます。ノートを振り返ることも容易な作業になります。
そして、ノートがだんだん成長してくることも重要なメリットだと思います。
自分の中のあるフェイズがノートという形になって現れ、それが日々成長していくことで、自分の中にそれまで混沌としてあった思考が明確な形をもって立ち上がってきます。自分の考えが育ってくる。そこにこそ、ノートを使う意味があるのかな、と思います。