現代の知的生産とノート

『知的生産の技術』が書かれたのは、1969年のことだから、今からもう半世紀も昔のことである。
知的生産には方法論があるということを示した点で、今もなお名著でありつづける本だが、
パソコンやスマホが当たり前の世の中となった今では、その方法論も時代に合わせてアップデートする必要があるだろう。
一方で、手書きのノートの必要性についても、デジタル化と並行してずっと指摘されてきたように思う。
では、手書きのノートの良さとは?

僕は、日記などはもうノートに書いていない。
普段持ち歩いているのは、雑記用のA5サイズ大学ノート一冊のみ。
あと、メモ用に紙片を数枚、手帳と一緒にいつも鞄に入れている。
僕が興味があるのは、勉強用のノートである。

太田あやが『東大生のノートは美しい』を出して、勉強法にノートテクニックが関係しているということが話題となった。実際、すべての東大生のノートが美しいものなのかどうか、ちょっと疑問にも思ったものだが。また、美しければいいのか?と反論もあったのだが、しかし、勉強ノートを作る上で、ある種の方法論があるということは、僕も概ねそうだろうと思う。

ノートとは情報の集積である。
自分にとって、何度でも見返す価値がそこにはなければならない。
その意味で、ノートに情報を一つ一つ積みあげていく作業は、ある種のコレクター的嗜好に似ているのかも知れない。
「自分にとって興味ひかれる」ということが鍵となるだろう。
読書ノートなら、「興味惹かれた言葉やセンテンス」を抜き出し、収集することになる。
語学ノートなら、単語やフレーズ、文法事項を収集することになるだろう。初めて出会った単語を書き連ねていくだけで、オリジナルの単語帳が出来上がる。自分が理解できなかった文や文法的な分析を書き記していくだけで、自分の学習の軌跡がノートに残されることになる。それは自分にとっては貴重な情報である。何をどう学び、今自分はここに辿り着いたのか。それを指示してくれる貴重な手がかりにノートがなってくれる。
数学などは、二冊のノートが必要かもしれない。問題を一通り説いて丸つけを行い(一次ノート)、間違えた問題だけを集めて自己分析する(二次ノート)。二次ノートに転機し終えたら、一次ノートは捨ててしまってもいいくらいだろう。その代わり、二次ノートには、自分の盲点が一覧化されている。このノートを繰り返し復習すれば、テストでもうまく行くだろう。
物理や化学、生物なども同じだろう。
社会科も同じかも知れない。問題を解く一次ノートと、間違え(知らなかった知識)を集めた二次ノート。
ノートには、知らなかったことや新しい知識を収集する働きもある。わざわざ用語集など買わずに、自分で作る方がいいのだ。不便かも知れないが、楽な方法はあまり身が入らないことの方が多い。
というわけで、ここまでざっと勉強ノートについて述べた。
他にも、日々の気づきをメモしていくことも考えられる。僕は多岐にわたるこうしたアイデアは、アナログなノートよりもPCに入力した方がいいと考えている。

ノートそのものは、コレクションする必要はない。何百冊ものノートを収納する場所にも困る。ノートに集められた情報のうち、その場で解決してしまう問題は残す必要はない。それより、解決できなかった問題や、より先に発展していきそうな問題を掬い取り、そこから思考を展開していくことの方が大切だ。
だから、ノートも未解決問題をPCに転記して、あとは捨ててしまうのがよい。
結局、現代は、デジタルな電脳空間にこそ自分の書庫を作り出さねばならない時代なのだと思う。
量と質の面でそうだし、検索や再利用の利便性の問題でもある。
こうしたことを踏まえながら、しかし毎日の生活は、お気に入りの鞄にスマホやPCなどのガジェット、そしてアナログのノートとペンを入れて持ち歩く。そして、日々集めた情報を勤勉にノートに書き込んでゆけばいいのである。