歴史を学ぶ意義

人類が誕生して4万年という。
しかし、歴史として語られ始めるのは、ようやく5千年程度のことに過ぎない。
キリスト以後の歴史は、たった2千年である。
「きんも100歳、ぎんも100歳、ワッハッハ」じゃないけれど、「人の一生100年」が普通になった超長寿社会の今日の基準では、たった20人分の人生ということもできてしまうのだ。
この「わずかな」歴史を、現代では通観することができなくなってしまっている。
歴史の教科書を開けば、現在の自分とは無関係で意味もない言葉の羅列にしか思えない、というのが大方の記憶する歴史の授業ではなかっただろうか。
現在の自分の思考や振る舞いの大部分が、歴史の堆積によるものだということには気づかない。
しかし、人間とは、これまでそういうものだったのかも知れない。

私たちは、なぜ歴史を学ぶのだろうか。
それは現在を知るためである。
歴史はロマンだからである。
過去を知りたいのは人の本能だからである。

なんとでも言える。

歴史は知識である。そして物語である。
現在を理解しようとすれば、我々は歴史を紐解くしかない。
あらゆる「知」は歴史的に存在している。歴史(文脈)を無視した理解などあり得ない。
現代を相対化するために、歴史に親しむのも良いものである。
僕は高校生の頃は「歴史」を憎んでいたが、あれは無闇に暗記を強要する受験制度が悪かったのだと思っている(教師との相性も悪かった)。「歴史」をそういうものだと思い込んでいた自分にも非があったのだが、歴史に関して僕は被害者意識が強いのである。

山川出版社の「詳説世界史研究」という「お受験本」を買った。
とても面白くて、毎日ベッドに入ると、ちょこちょこ読んでいる。
勿論、受験の為ではない。
この分厚な本を楽しく読める理由は、自分の中からフツフツと湧いてくる様々な問いのおかげである。
「キリストはなぜ殺されたのか、誰によって殺されたのか」「イスラム文化は、どこでどのように発展したのか」「子どもの頃に見た『アラジンと魔法のランプ』や『シンドバッドの冒険』から直感したイスラム文化への憧憬とは何だったのだろうか」「十字軍と教会がなぜ結びついたのだろう」
(なんで宗教臭い問いばかりなのだろう・・・)

歴史を知ることは、トリヴィアな知識を持つことの快楽でもあるが、それだけではない。
自分が生きてきた歴史を再考し、自分を歴史の文脈にマッピングすることなのだ。自分を形成してきた所与の文化の来歴を問うことは、自分とは何かを問うことでもある。
それはとても楽しい知的快楽なのである。(暗記には知的快楽はない)
そして、究極的には、歴史記述の根拠を再考することを希求している。私たちが信じている歴史の提示する「物語」を「批評」することによって、僕は自分の立ち位置を始めて知ることができるのだ。
すべての知的営みは「批評」なしにはあり得ないのである。