学校教育と待機説法

子どもの階層性を否定しても始まらない。(ここで言う階層性とは、「学校ヒエラルキー」と呼ばれるものとは違う)
子どもの所属する家庭の文化資本格差が増大しつつある今日、子どもの文化的振る舞いに大きな違いがあるのは、むしろ当然であろう。
学校という場では「学ぶ意欲(態度)」にそれが顕著である。
子どもの階層性を否定して、「みんな平等」という建前のもとに、今では秩序を失ってしまった教室の共同性に何かを委ねても無駄である。(公共性ある共同性を打ち立てられないのが「子ども」である、というのが現在的な子どもの定義であれば、それは当然のことだ)
むしろ、子どもたちの階層性を所与として、これを利用してグループを細分化編成し、新たな共同体を立ち上げてみたらどうだろう。
クラスという集団に秩序を回復するためには、個人レベルでの公共性(義務と責任の自覚を持った個人)を回復することが必要であろう。それを「貴族」(内田樹)と呼ぶなら、教師は個々人の「貴族性」を求めていくよりない。40人全員を信賞必罰で遇していくというのは無駄が多く、かつ生産性に乏しい方法である。(勿論、信賞必罰が最適な集団もあるだろうから、そうした集団に対してのみ適用すればよい)
いずれにせよ、一律に遇するというのがよくない。
教師が、始めから40人を一つの束として動かすのは、不可能に近い。
むしろ、これを少数のグループに細分化して、それぞれのグループの特性に応じた方法論を持った方がいいのではないか。これを差別と非難する方もおられるかも知れないが、貴族には貴族に対する、大衆には大衆に対する、適切な処し方というものがあるのである。
いってみれば「待機説法」こそ有効であるということだ。