暗黙知と学びの発動について

主体的に考える為に何が必要だろうか。
それは「考えれば分かるに違いない」という直感である。
そもそも、それを問題として設定するのは、それについて適切に考えれば答えに辿り着くはずだという見込みがあるからだという指摘がある。直感のレベルではそれは暗黙に予感されており、ただ明示的に解決されていないだけなのである。暗黙知を明示知に変換することが「考える」という作業である。
そうであるなら、子どもに何を考えさせるか、なぜそのタイミングで考えさせるか、その判断と選択の根拠が大切になってくる。
勿論、子どもは一人ひとり違う。
経験も、関心のあり方も、暗黙知を予感する力も、個々に違う。
だから、複数の子どもたちを単純に「まとめて教える」ことができない。
そして、この「暗黙知を予感する力」は、その子どもの知的なあり方、すなわち「関心・意欲」とも大きな関係があるだろう。
「関心・意欲」を失っている子どもは、「暗黙知の予感」を発動することができない。「暗黙地の予感」が学ぶ意欲を発動している、という定義上、関心・意欲の喪失とは、学びのチャンスを逸っすることを意味するからだ。
だから、集団を相手にする教師は、個々の子どものスタートラインが始めから違うことを含み見ておかなければならない。
誤解してはいけない。スタートラインの違いというのは、学力の差という意味ではない。そもそも関心・意欲の持ち方に大きな格差があるという、今では既知のことである。

しかし、ここまでは「一般論」。
教師の強みは、具体的な子どもたちに寄り添っていることであろう。
目の前にいる「生」の子どもたちは、何ゆえに「予感」を発動できなくなっているのか。
僕の独断では、それは「体験の喪失」と「体験を言語化する環境の喪失」にあるような気がしてならない。
学校は、家庭や地域に代わって、「その場」を提供できるのだろうか?
場合によっては、「体験の場」を与えること自体が、学校に求められている役割なのかも知れない。