「消費者」としての子どもたち

学校というのは、社会の縮図だといわれます。
子どもは、大人の振る舞いを模倣し、社会の(暗黙に)要請する「子ども像」を演じています。
では、子どもは今の時代、どのような振る舞いを要請され、何を演じているのでしょうか。
内田樹氏の指摘によれば、昔の子どもは、まず「労働主体」として自己を立ち上げるが、今の子どもは「消費主体」として自己を立ち上げる、とのことです。
「消費主体」とは、対価としてのサービスを求める者のことです。
教育は、今や子どもたちに値踏みされ、対価としてのみ受け入れられるサービスに成り果てました(涙)。
我々教師は、毎日子どもたちに「こんな授業でご満足頂けますか?」とお伺いを立てなければならなくなった、といったらいいでしょうか。
もちろん、殆どの子どもは満足しません。「つまんねーの、ヘッ」ってな具合い。
そういうわけで、消費者マインドを身につけた子どもたちは、学校の器物を破壊し、教室にはゴミを撒き散らし、掃除はやすやすボイコットし、それのどこが悪いのかという顔をします。
居残り清掃を命じようものなら「ふざけんなよボケッ」と教師に暴言を吐きます。こんなことは日常茶飯事です。
このくらいで驚いてちゃ甘い。今の子どもは、このくらいのさばっているのです。
でも、そりゃ当然なのです。
だって「消費者」なんだから。サービスを受けるご身分なんです。
教師は、子どもに勉強していただくために奉仕する存在。
清掃をしていただくために、なだめすかして、なんとかやっていただく存在に成り果てているのです。

教師はこれほど卑屈にならざるを得なくなっている。
なぜか。
教育を受ける権利をボイコットした者を、教師はボイコットできないからです。
そして、権利を放棄する子どもたちが、学校では天下を取ったような顔をできる存在になり得るという倒錯した逆説的構造が、そうした子どもたちを増長させ、増産しているのです。
それは、学校が地に落ち、頽廃することに他なりません。