哲学対話は難しい

ある読書会に参加してきた。
今回の読書会参加は二回目だったけれど、前回に引き続いて消化不良を起こした。
集まった人が、めいめいバラバラに意見を言い、またそれぞれの発言も個々の主観に偏っている感じで、何について話し合っているのか最後までよく分からないという印象だったからだ。
哲学対話では、それぞれの意見を否定しないというルールが設定されており、何かこう散漫な話になりやすいという感じがしている。いっそのこと、ファシリテーターが権力を発動して議論を仕切ってしまう方がいいのではないか。
参加者の共通の関心をざっくりと抽出してテーマ設定を行うということが、一つの解決的な方法だろう。
実際、今日の進行役の方にそうした意図も見えたが、結局個別各論の展開という流れを変えるまでには至っていなかった。
哲学対話というものが、表層的なものになりやすいという危惧を抱いた。
より本質的(と僕が思う)問題に立ち入ろうとすれば、それは他の人にとっての関心から外れた話題となるのかもしれない。誰かの関心に寄ってしまうと、他の参加者が不満を抱いてしまうというパラドックスがあるのでは?という疑問。
しかし、誰にとっても当たり障りのない話をしていては、、全員の心に虚無感だけが残ってしまうだろう。
そこで、ファイシリテーターは、参加者の関心を汲み取りつつ、どこかに焦点を定め(他のテーマを捨てる英断を下す勇気!)、その結果として、深みのある議論を導いていくことが必要なのではないか。

今日の結論は、哲学対話においてファシリテーターの役割がとても重要なのではないかということになりそう。