差別の問題

田代まさしは、差別問題を端的に表している。
彼の犯した犯罪は、盗撮であり、また薬物依存が背景にあるが、こうした問題を起こしたことによって、彼は芸能界から追放されただけでなく、有名人であるがゆえに世間の晒し者にされた。彼には隠れる場所がない。シェルターがないのだ。(ダルクは、とりあえず彼のシェルターにはなっている。)
オウム真理教麻原彰晃の三女は、実名を公表して本を出版したが、彼女もまた、犯罪者の子という宿命を背負って生きていくことの苦痛と困難を告発している。彼女にもまた、シェルターがない。
酒鬼薔薇事件の少年Aは今年『絶歌』という本を出版し、賛否両論が巻き起こった。犯罪を金儲けのタネにして恥知らずだ、というのが世間の言い分である。本を出版する以上、実名を公表すべきであるという意見も多い。実名を公表すること、それは、この社会にとって何を意味するのだろうか。田代や麻原三女の例は、実名の公表が何をもたらすかを示しているだろう。つまり、金をもうけるなら、社会的な供犠になれと言っているのだ。(宮台真治は「確かに本を出版するのは法律違反ではないけど、道義的に言ってありえない」とした。彼はこうした凡庸なコメントをするよりも先に、この件に関する社会の反応を分析すべきではないのか?と俺は思う。)
こうした事象の背後には、社会的イコンとして祭り上げ、暴力的に「供犠」(サクリファイス)へと落とし込もうとするある特殊な差別的な力が働いているように見える。犯罪者は多かれ少なかれ、そのような制裁を社会から受ける。しかし先に挙げたような有名人たちは、より象徴的な形で社会から制裁を受けている。理解することより葬り去ること、それ自体が快楽であるかのように。でも、誰にとって? 少なくとも理解するより葬り去りたいという意識が大きく働いている。『絶歌』がそうであるように。そこには禁忌の力が働いているだろう。
阿部謹也(『自分のなかに歴史をよむ』)や、網野善彦の分析では、神秘的な力を必要とする職業に対する畏れが賤視へと変化していったという。屠畜や芸能など。現代の日本においても部落差別は残っているというが、今の差別は、むしろ犯罪者の供犠化にこそよく表れているのではないか。(これって「いじめ問題」に似ていないか?)
話を戻す。
禁忌、タブー視されるもの、それが差別の根源にある。
今の社会においてタブー視は、犯罪者であり、性的マイノリティーであり、また性産業従事者である。
最近、アムネスティインターナショナルが売春業を擁護したというニュースがあった。性風俗産業は、現代の「皮なめし業」なのだろう。性という誰もが魅了され、また逆らい難い悪であるような領域。そこに禁忌が働き、タブー視され、差別が起こる。
そう考えてくると、前近代の部落差別も、現代の差別も、構造というか、存在の仕方は同じなのではないかという気もしてくる。社会のパワーバランスのために、こうした差別が必要となっているのだろうか。