学力向上の可否

学級崩壊に象徴される新たな「荒れ」が言われて久しい。
校内暴力が吹き荒れた時代とは、学校が置かれている状況も社会のあり様も変わってしまったので、学校がこれまで蓄積してきたノウハウは全く生かせないまま現在に至っている。その間、行政側も〈ゆとり教育〉を巡って右往左往し、今はその揺り戻しの方向に向かっている。

今の子どもたちの「荒れ」の原因はどこにあるのか。「識者」の意見はさまざまに流通しているのだが、現場は一向に聞く耳をもっていないかのごとく。というか、まるで無関心。
その背景には、今の行政の揺り戻しの「無策ぶり」がある。
学校は自らを消耗させずに、社会とどう折り合いながら子どもと接していけばいいのかを模索するものだが、行政の押し付けてくる施策に全く希望が見えないのだ。言い換えれば、今はただただ消耗戦の様相を呈してきたのである。ギリギリに切り詰められた予算の中で、旧態依然の枠組みの中でコトをどうにかしようとしているように見える。平成24年に新しいカリキュラムが一斉に施行されるのだが、要するに授業数を増やすということだ。しかも、ひとりひとりの「学ぶ力」や「意欲」を育成するはずだった「総合」はすっかり影をひそめ、五教科の授業数が単純に増える。授業数を増やせば子どもの学力は伸びるなどと、そんな単純な思考をしているわけではないだろう。それ以上にやるべきことがあることは行政も学校も知っているのに、そこに手をつけられない。そこに大きな矛盾がある。

そもそも学校とは「学力向上」を目指すところなのだろうか?

もし学力向上を謳うのなら、学校は塾のやっていることを目指せばよい。つまり教室を解体し、部活動や課外授業、修学旅行なんかもやめて、学習塾となればよい。教室という強制された共同性がイジメの温床となっており、そもそも共同性のない塾にはイジメが発生しないという指摘(尾木直樹)があるくらいだからだ。実際、部活も課外活動もみんなやめて、授業だけに専念できた方が効率もよくてずっと楽だ。学力至上主義的な発想で言えば、部活も委員会活動もボランティアも清掃も、かったるいだけ。そんなものを一切やめて、塾のやっていることを学校が税金でやればいいのである。
万引きで補導された子どもを警察まで引きとりに行くような「面倒」な仕事も、本来親にやってもらうべきことなのだから、これからは一切学校は関知しない。今まで学校は、離婚等複雑な事情を抱えた子ども、或いは経済的・精神的な理由で子どもの養育に手の行き届かない家庭の代理的な仕事を多く引き受けてきた面がある。それも、学校ではなく別のところに負担してもらう。そういった責任も一切学校が引き受け、なおかつ学力向上もやれというのでは、筋が通らない。
家庭や地域の責任を明確にし、学校は学校が本来すべきところの学力向上に専念するのである。

しかし、こうした主張に真っ先に反論するのが、先の「学力向上」論者ではないかと僕は思っている。そこに「学力向上」論者の本音と建前があるということを見なければならない。