集団の中で病む子どもたち

今の子どもたちの様子を目の当たりにして、どうしてこうなってしまうのだろうとやるせない思いに胸を痛めています。というのも、今の子どもたちは、集団形成が出来ない。必ず集団化すると「病む」のです。学校は「集団生活を学ぶところ」とされていますが、実際は集団によって「病む」ことを学ぶところになっているのです。これはいろいろな場面で見られる現象です。
万が一、子どもが病んでしまった場合、その後の展開は二通りあるように思われます。
一つは、子どもが学校に来なくなることです。つまり「不登校」です。(以前は「登校拒否」と言われましたが、今はこの呼称は死語化しています。「拒否」には主体的な選択のニュアンスがあるけれど、実際には「行きたくても行けない」という事例が多くあるからでしょう)そして、そういう場合、ひっそりと、子どもは学校から存在の影を消していくのです。
もう一つは、親が学校に乗り込んで来る。これは、かなりラディカルです。子どもが学校に来れないという現象面は同じなのだけれど、親が問題をなんとかしようとする余り学校に抗議してくる。担任がダメだとかなんとか言ってくる。
後者の場合の親が、世間の言う「モンスター・ペアレント」なんだろうと僕は思います。
今、ここで、僕はモンスター化した親の批判をしたいのではない。
それよりも、現象の根本を遡れば、一つに帰結するのではないか、と言いたいのです。
それは、子どもが「病む」ということです。

では、なぜ、子どもは「病む」のでしょうか。そこに、今の学校の問題を解く大きな鍵があるような気がする。
子どもが集団を形成できなくなったのはなぜなのか。逆の言い方をすれば、集団化すると「病む」のはなぜか。今の教育現場はもとより、多くの教育評論家の言辞が、こうした問いに答えを与えてくれていません。それなのになお、学校は集団教育を要請されているということ。そこに矛盾を感じてしまいます。
私たちが出来ることは、まず、子どもたちを守らねばならないということです。
それに比べれば、「学級崩壊」など取るに足らない問題なのかも知れません。
多くの小中学校は、崩壊現象を抱えていると思いますが、それはある意味「必然」のことなのだから、そんなことで悩むなと言いたい。崩壊したい子どもたちは放っておけばいいのではないでしょうか。そこで、キリキリしてしまう教師の本当の問題は、親や地域や同僚や管理職や教育委員会からの圧力に押しつぶされそうになっていることにあります。
そんなことより、集団化すると「病む」という子どもたちの今のあり様に敏感になって、この問題を解こうとする教師の知的営みこそが、必要なのではないでしょうか。