責任の所在が不明確な社会

子どもの体力が落ちたという文科省の発表があって、学力も体力も低迷している大阪の橋本府知事のキレ気味発言がテレビで流れた。
「普通勉強ができなきゃ、体育は出来るもんだ」という発言の是非はひとまず問わないことにする。
それより、その後に「学校はもっと対策をしっかりしろ」といったようなことを言っていたと思うのだが、それって学校の問題だろうか?

というのも、あまりにもこの国では、教育の問題が学校にすべて押し付けられすぎているように感じるからだ。

学校の責任を問う前に、親には親の責任、地域の大人には地域の大人の責任というものがあるはず。
そして何よりもその前に、子ども自身の成長段階に応じた責任範囲というものがあるはずではないか。しかし、子どもの責任を問うことはまずない。親や地域の大人たちの責任を問う声は、皆無である。
教育の責任を、親も地域も学校に押し付けて、自らはそこから逃れているのが、この国の現実ではないだろうか。
子育てはシャドーワークなのだ。利益と効率を優先する世の中の風潮が、子育ての面倒さを忌避し、学校に全てを押し付けてしまった。

一方、学校には自己決定権があまりない。行政の押し付ける金太郎飴式の学校であるよう迫られるのだ。また、現場を管理しようと膨大なアンケート調査や書類の提出が求められる中で、不毛な仕事に忙殺され窒息しているというのが、現場教師の現状だ。
自己決定する自由がある、というなら話はまだ分かる。しかし、責任だけ押し付けられて、学校が独自に何かを決められる権限は剥奪されている。学校は、現場教師も自ら判断しないし出来ないし、管理職さえ、殆ど自分では何一つ決められない、という明らかにおかしな状況なのである。
管理職が何も決められないなんて嘘だろう、と思うだろう。しかし、暗黙の自粛の原理が働いているのだろうかというくらい、何も決められない。前例を踏襲するだけに止まっているのだ。民間校長だった藤原さんの存在によって、このことが少しは世間に理解されるきっかけになったのではないかと思う。

子どもの責任を問えない、親の責任を問えない、地域の大人は一人の市民として子どもと接することができない。なんと未成熟な社会だろうか。立川談志は「甘ったれ」と言っていた。
そしてこのことが、逆説的に学校の責任も曖昧にしてしまっていると僕は感じている。