内田樹をヒントに(ノート活用法へ)

内田樹氏の文章が面白い。評論が芸術の域に入っている。考えるとはどういうことなのかを思い知らされるのである。
もちろん、そこには論理がある。論理的な思考がない評論なんてあり得ない。しかし、論理的な思考が優れた評論の条件ではないということを、ウチダは体現している。

それでは、優れた評論(思考)の絶対的な条件とは何か?

それは批評的態度とでも呼ぶべきものである。

ウチダさんの言うことって、社会一般の通念とは間逆のことなんです。つまり世の常識に逆らっている。しかし、常識が「根拠のない信用」で成り立っている知である限り、常識はひっくり返せるし、そこに論理という血が通っている限り、その文章は明らかに読む価値を持ちます。ウチダさんの文章って、常識をひっくり返す見事な論理があります。しかもそこには、ものを安易に信じない「批評精神」が躍動しています。
それこそが「精神の自由」なんじゃないかな、と。

ちょっとフランス思想かぶれてる気味なんですが、ウチダさんにとっての「フランス」は明らかに「精神の自由」そのものでしょう。少なくとも、自分の精神に自由を保障してくれるものが、思想家には必要です。(だって、社会で上手く立ち回っていたら、精神の自由はなくなるんですからね。)
そういう土壌が、ウチダさんにとっては「じぶんち」でもあるわけでしょう。

で、オレにとっての「フランス」や「じぶんち」って何ナノかな?って思ったら、少なくとも「仕事」ではないわけです。家に帰ってきても、なんかあんまり自分の思考に向き合えていない。酒でも飲んで、酩酊のうちに居眠りこいてるのが関の山。
自分の思考を活気付けているのは、職場での退屈な時間と、電車の中だという気がしてます。
強制された場における、退屈な時間。これが自分に思考を促している。
そこでこそ、メモすることが意味を持つ。
フィールド・ノートとは、思考の断片をメモするためにある。瑣末な情報を集めるためにある。
それらの断片を集約するのが書斎での書き物の使命ですが、ノートに書くとあまりに書くスピードが遅すぎてストレス溜まります。これが日記が続かない理由だと改めて反省。
最近、学者がブログを書くのも、ワープロのタイピング速度が思考速度とかみあって、いい具合だからだと思います。(尤も、売れてない学者は、自己顕示欲だけで書いてるのかも知れないけれど)
あっ、ちなみに、このブログは自己顕示欲じゃないっすよ。これはたんに酒飲みの愚痴みたいな、放言ブログです。
というわけで、この文章は、当初の予定とは違う地点に着地しそうです。
昨今の文房具ブームは手書きの魅力を謳っていますが、手書きとは自分にとっては、フィールドのメモに適しています。書斎の文具はパソコンに決まっています。ワープロに打った方が速いんですから。
ノートを上手に活用するなら、ノートPCを持っていけないような戸外で書くことを想定した方が良さそうです。PCがある環境なら、僕は迷わずPCを使いたいのです。トラベラーズ・ノートという言葉は、手書きが旅行中の戸外に適していることを、図らずも示していたのでした。