自由と天邪鬼

何をどう考えるかは「自由」だけれど、実際には、人はそれほど自由に考えることはできないものだと思う。周囲の環境が、考えに大きく影響するからだ。
まして、同質性の高い集団を作りたがる文化の中では、それはなおさら大きな影を落としている。
だから、僕はよく、自分が自由に考えているのではないと思うようにしている。
僕は自由に考えてなどいない。そう考えるように仕向けられている。考えさせられているだけだ、と。
自分が自由に考えてはいないように、隣人も、遠くにいるあの人も、きっと社会や集団の中でものを考えているのだから、きっと自由に考えているのではないのだろうと思う。
それは自然の摂理に従うようなものかもしれない。その意味で、「自然に」考えるというのは、実はとても不自然なことなのかもしれない。
「天邪鬼」とは、自然の摂理に逆らって、「自由に」考えようとする不自然さをまとった人のことなのではないだろうか。でも、そういう人間がいないと、社会の多様性は絶対に生まれてこないはずだ。多様性がない社会は、自滅する運命だろう。
「自分ならこう考える」という自分だけの世界をしっかりと持つことが大事ではないだろうか。
ややもすれば、誰かの言動をなぞるだけの世界。自分がコピー品だと自覚することもなく、皆誰かのモノマネをやっている。
そういう世界と対極にあるのが、「自分ならこう考える」という世界なのだ。
僕たちは、いろいろな物事に出会いながら毎日を生きているが、その中で、誰かのモノマネなんかじゃなく、「自分ならこう考える」というものを表現していくことが、息苦しい世界から自分を解放してくれる術なんじゃないだろうか。
どの世界でも、先人から学び、カリスマから学び、学ぶことは真似ることだと言われているから、それはいいのだ。でも、そこで終わってはいけないのだろうと思う。時には天邪鬼にならなければならない。そんなとき、自分を支えてくれるのは、「自分ならこう考える」と言える世界を持っているかどうかなのではないかと思う。