菅官房長官の批判は、一般常識的な視点からは筋が通っているけれど、問題は根拠とタイミングだ。
また、根拠である。読売新聞のすっぱ抜きを根拠にした発言だろうが、裏を取った段階ではないはずなのに、断じてしまうことの問題性だ。実は、こうしたスキャンダル報道を煽った張本人が、官邸側だとする見方がある。
だからこそ、一部新聞報道が出ただけで、断言してしまえた、と言えなくもない。
そして、考えなければならないのは、その怖さだ。
出る杭を野蛮な形で討とうとする政治的暴挙を許してしまっていいのか?という問題もある。
そもそも、官邸にもの申すことができない、無言の圧力という風潮が、歪んだ意思決定の温床になっている。
役所のこの閉塞感という問題が、前川氏の訴えた中にある一つの大きなメッセージだった。
そもそも、なぜ、こんな形で歪んだ意思決定が行われることを許してしまうのか。
役人たちが、もの申すことができないことは、内部文書をめぐっての国会答弁においてもにじみ出ている。
「同姓同名の者はいる」という、常識的に見てあり得ない答弁が国会でなされるということに対する違和感を、多くの人は感じたはずだ。
菅官房長官が前田氏に表明した「違和感」が、常識的に見て妥当なら、国会での答弁に対する違和感もまた常識的に見て妥当なはずで、そこに対する野党または国民の違和感が無視されるならば、やはり今の政治は歪んだ圧力によって方向を見誤っているとしか思われない。
前だっち問題とこのことは明確に区別されなければならないと思われる。