受け入れる 感謝する 自分を変える

昨日はバンドの仲間と食事。
同業の仲間は、
「もう最近年取ったら、同僚に対してもあまり腹が立たなくなってきた。若いころは、けっこうやりあったりもしたけれど、それって何も変わらないって分かって来たから。それより、共感をもって相手の話を聞いてあげる方が大切だと気づいた」
と話していた。
おもしろく聞いた。

腹を立てるより、感謝すべきなのかも知れない。
自分のやるべき仕事が与えられており、その仕事において、自分がやりたいことが一定程度やらせてもらえて、いったい何の不満を言うべきか。
そう考えれば、むしろ感謝すべきだと、彼は言うのである。
なかなか深い話ではないか。

* * *
今日も、職場ではあまり楽しい気分にはなれなかった。
周囲は楽しそうにお喋りしているが、まったく話に馴染めず(根拠の怪しい低級な話だ)、うんざりした気分になっていた。
問題は、そういう話しを雑音として聞き流すことができず、いちいち反感を持ってしまうことにある。
反感を感じたり、バカバカしい話であっても、それによって保たれている輪から疎外されているような気分になってしまう自分の感受性の方にも、自分を苦しめている原因がある。
まったくバカバカしい話だと聞き流せばいいだけのことなのだ。
そんなバカな話で意気投合している輪に入れてもらえなくて、いっこう差支えない。
そんな連中の仲間になどならなくたっていいじゃないか。
いや、そんな敵対的な感情を持つっていうことは、そもそも意識過剰になっているわけである。
目に入らない、そんな状態に自分がなれたら、きっと気分を害することもないのだ。
僕は、自分の心を変えていくことが第一だと思った。

いじめの問題についても、似たようなことがある。
加害者側の人間は問題だが、いじめを苦に自殺してしまう者は、逃げればよかったはずだ。
なぜ、逃げなかったのか?
なぜ、親や教師や大人たちに知らせなかったのか。
せめて親には、話せたのではないか。
自殺まで追い込まれたのは不幸だが、自分の精神を追い込んだもう一つの原因は、逃げることを許さなかった自分の心にもあると思う。
これは、過労自殺問題についても言えると思う。
自殺する前に、会社を辞めればよかっただろう。
なぜ辞められなかったのか。そこが問題だ。
そこに、その人自身が抱えている心の問題が見え隠れしているように思えてならない。
別に、自殺した被害者側を責めて、加害者側を擁護しようというわけではないので、誤解しないでいただきたい。
そうではなく、逃げることも立ち行かなくなってしまったのは、外からの力によってだけでなく、内からの力によってでもあったということが言いたいのである。