議論を学ぶ

理想的なストラトの音。


今日も無事に一日が終わった。
年末で、仕事が一つずつ片付いていく。片付くまでいかないが、少しずつではあるけれど、着実に進んでいる。いいことだ。
今日もミーティングに参加。
話を聞きながら、自分にもあてはまることが多いなと思う。
特に、アディクションについては、自分もそうだと思うことしきり。

昔は、論理と議論の力があれば、独力でどこまでも進んでいけると思っていた。
ところが、実際は理屈で考えるほどうまくは行かないことが多かったように思う。
論理と議論の力を今も信じていないわけではない。
ただ、そんなに簡単ではないということだ。
なぜだろうか。
それは、論理と議論の正しい方法が自分には分かっていないからではないかと思う。
自分だけではない。世の中のどこに、正しく理論と議論の力を働かせて問題を解決している例があるだろうか。
日本の政治に限ってみても、どうしてこんなことやあんなことがまかり通ってきたのだろう?と思うことばかりではないだろうか。
政治こそ、論理と議論の力に拠って立つ場であるはずなのに。
現実には、多くの複雑な問題が複合していて、理屈通りにはうまく行かないことが多い。
政治がそうなら、自分一人のちっぽけな人間に出来なくても無理はない。
しかし、しかしである。
かつてのエリートは、ペンの力を信じて世に問うたり、世に立とうとしたりした。
今は、大学出が溢れている世の中なのに、議論と論理を信じない人間ばかりの世の中になっている。
それだけを見たって、今の大学教育が悲しいことになっていると言っていいのではないだろうか。
議論と論理の力を信じて様々な局面を乗り越えていく知的体力が欲しい。

僕は、最近また議論の本を読みだした。
ネットでも、勉強できるサイトがある。
やはり、基本に立ち返って、論理と議論のイロハを学び直す必要があると思う。
学ぶ気になれば、何だって学べるところが、現代日本のいいところでもあるのだ。