議論、対話、ネットワーク

議論というと、何か空疎で、実際は議論などでは何も決まらず、場の空気とか声のデカい奴の恫喝だったりで決まるんじゃないの?長いものに巻かれるのがオチだよ、と思ってしまうのは、僕だけではないだろう。
そういう息苦しさがこの国にあって、議論じゃ何も決まらないという諦念のようなものに支配されている。
だから、ネット上では、誰が論破したかに注目が集まり、橋本大阪市長の言動が大きく注目されたのではないだろうか。
今も、誰かが誰かを論破するのを野次馬的に楽しんでいる大衆という構図があると思う。
議論という言葉の空虚さを言い出したら止まらない。

しかし、一方で、僕たちは自分の頭でものを考えるとき、AとBという二つの意見を比較し、Aの意見を批判したり、Bの意見を採用したりして日々暮らしてもいる。これって、自己内対話、自己内議論でしょう。
そういうことは既に『議論の方法』という本にも書かれている。
だから僕たちは、議論というものについて、ある程度正しく理解し、知っている必要があるだろう。

一方、僕たちは知識が増えれば増えるほど、既存の知識で物を見て判断を下し、現実を裁断したり分析したりするのである。これは頭がいいようだが、話は自分が予め知っている結論へと辿り着くだけで、予定調和なかっこ付きの「議論」、(議論らしきもの)をやっているだけにすぎない。多くの人は、何かそういった予定調和な話のパターンの中で喋っているように僕には見える。
でも、現実をつぶさに、不思議さや疑問の目で丁寧に観察するならば、そうそう既成の知識だけで分析可能なわけではない。だから、その時、既存の知識では不十分で、新たな発見と知見の完成に向けた知的格闘を必要とする。そういう格闘をしている人は、どこかに子どもの目を宿している。初めて現実に触れた時の驚きや不思議さの手触りを失っていない目だ。
そういうことを外山滋比古も書いている。
だから、現実を分析できないのは知識が足りないからだ、と考えるのは早計である。
勿論、知識が足りないから分析できないこともある。でも知識があれば分析できるというわけではない。
むしろ、自分で考えなくなるだけ、知識を持っていることはマイナスだ、と外山滋比古は言っている。

僕たちは、自らの手の内にどれだけ知識があろうとも、いったんそれを脇に置き、もう一度考え直さなければならない。自己内対話。自己内議論。知的複眼思考。そこに思考の格闘がある。
僕は、そういう自己内議論を経たうえで話される言葉しか、本当に聞く価値のある言葉なんてないんだと思っている。
予定調和な話はもうたくさんだ。僕は世の中の多くの人のノリと波長が合わないが、その理由は先に書いた通りの天邪鬼のためだと自分では思っている。

今のようにネットが発達し、万人が情報を発信できる時代だからこそ、本当の議論の知識と理解、そして自己内対話や自己内議論を経た言葉の必要性を強調したい。
そして、知識があればいいのだという安易な知識至上幻想を捨て、子どものように驚きと迷いと不思議の目で現実を眺める感性を見失わないことが大切だと思っている。
そして、そういう人たちだけが、本当につながり合えるのだと思っている。
人間と人間のまやかしではないネットワークが生まれ、その意味を本当に理解している人々がつながり合い、社会を変革していく力となっていくことを夢見ている。