右傾化への戒め

職場のトップ(ここでは‘社長’と呼ぶ)が、部下のクソ真面目さを揶揄して「清濁併せ呑め」と発言した。
僕はこの言葉に引っかかった。一瞬顔が引きつった。
‘社長’は相当酒が入っていたようで、その勢いで出た本音のようだ。
しかし、これは言葉の誤用である。
本来「清濁併せ呑む」とは、人間の度量の大きさを表す言葉だったはずだ。
だから、「濁」を受け入れるよう強要するために使うべき言葉ではない。
濁を呑めと強要されるのは困りものだ。
‘社長’がこんなことを言ったら、真面目な部下が浮かばれないであろう。
部下のクソ真面目さも受け入れることこそ「清濁併せ呑む」ことに外ならず、それをお出来にならない‘社長’にこそ、「清濁併せ呑め」と言うべきであった。

おかしいことをおかしいと言えなくなったら、その組織はおしまいである。
トップがそれを封印するように圧力をかけた場合、その結果は火を見るよりも明らかである。
最近の東芝の不正会計問題にしたって、豊洲の移転問題にしたって、「おかしいことをおかしいと言えない」組織の圧力的空気が背景にはあったと思われる。どっかの一党独裁国家のようになっている。
いや、どっかの国に譬えるのは失礼か。この国の過去にあった一党独裁時代と同じ精神構造、組織構造が、今も尾を引いていると言うべきではないだろうか。
丸山真男だったら、この時代の空気をどう批判しただろう。
何も変わってないじゃないかと言うはずである。

世界は右傾化している。
日本においてもリベラリズムは衰退し、右傾化が進んできた。
一方、最近のヨーロッパやトランプ以降のアメリカの状況を見ると、この右傾化の先もそう長くないんじゃないかと思わずにいられない。リベラリズムと均衡をとるために引き戻しがきっと来るんじゃないだろうか。
右の中からおかしいことをおかしいと言える自己内批判が生まれてくることが必要だ。そうでなければあの戦争の時代に戻ってしまう。
右のトップに「清濁併せ呑む」度量の大きさを期待したい。