ネットワーク社会へ

人と会ってお喋りするのが、面倒くさいと感じる人種がいる。
僕もどちらかというと、そのクチだった。社交性ゼロの人間だと自負していたくらい。
しかし、今年になって、かなり色々な人と積極的に会って話しをするようになった。すると、男女問わず、様々な人と知り合い、いろいろと話をするのが楽しくなってきた。
これまでが内向の時代だったとすれば、今は人生初の外向の時代!
それで、「個人と個人が組織の壁を超えてネットワークを作る」(藤原和博)ことが、これからのライフデザインを考えるうえで、本当に大きな意味を持っているんじゃないかと思うようになってきた。
人とつながる意欲を持つことが、人生の意味を大きく変えるインパクトを持つのだ。
自分の言葉で語ること。自分を晒し、恥じをかき、そんな中で人と共鳴し合える喜びが感じられれば、今の問題の多くは、かなり加速的に良い方向に向かうんではないかと思ったりする。
まず、僕たちは他者と語り合う言葉を持つことで、学ぶモチベーションを得られるんじゃないか。
組織のしがらみとか、制度化されてしまった現実の歯車のひとつとしてしか感じられない生の希薄さとか、それによって陥る自分の存在感の無さとか、そういうもろもろのマイナスの感覚から脱出できる。
そして、組織のあるべき姿、地域のあるべき姿、社会のあるべき姿を、思い描き、創造する主体として、自分もそこに参画できるんじゃないかという期待。朝日や岩波的な正解主義に同調するんじゃなく、社会を所与のものとして惰性的に受け入れるんじゃなく、働きかけたり支える一員になったりして、現実は変えていくことが可能なのだと信じる力を得ることだ。小さいながらも、自分の生の実感とスパイラルしながら、自分の生のテリトリーを拡張していくことだ。
これまでは違った。僕は誰とも親しく会話などしたくなかったし、本の世界に遊んでいる方が傷つかなくて安心だと思っていた。でも、そんな弱っちい精神は、いつしか現実を変え難いものと思い込み、諦めたり妥協したりしながら生きていくものだという誤謬を学習してしまうことになった。
多くの若い人間が、そんな生の感覚を持っているのではないかと思う。
引きこもり人口の急増とも、それは無関係ではない。他者を拒絶して、肥大化した自己の世界に埋没することで自分を守る若者の姿は、現代日本のひとつの象徴的な風景だろう。その延長線に未来はない。方向転換が必要だ。自分の殻から出て、自由に他者と交われる者たちこそが、新しい狂騒を演じられるに違いない。