伝えられない「僕」が、伝わらないジレンマを伝えようとした小説

風の歌を聴け』は、1979年に発表された春樹さんのデビュー作。
ストーリーを細かく章断に断片化してバラして、順序を入れ替えて、再構成したようなスタイルの、ちょっと不思議な感じの小説です。
ストーリーは、1979年現在で29歳になる「僕」という語り手が、これまで語りえなかったことを語るという内容で、1970年8月の十数日の出来事を文章にするという形で進んでいく。その十数日は、東京から帰省した大学生(21歳)の「僕」が、ジェイズ・バーでしこたまビールを飲みながら、「鼠」や「小指のない女の子」と関わりを持つ。
問題は、29歳の「僕」にとって、書くことは「自己療養へのささやかな試み」であるとしている点で、その自己言及がこの小説の理解に大きな足枷となっていることだ。
つまり、「僕」はなんらかの〈病〉を抱えているということの表白なのだが、その病が何なのか?といえば、つまり他者とうまくつながれない、コミュニケートできない、ということなのだ。むろんその背景には60年代全共闘を経たことによって、他者との連帯への断念を含んだニヒリスティックな「僕」の状況があるのだが、では、この小説に描かれた「鼠」や「女の子」との関係が「つながれていたか」と問えば、それは全然お話にならないくらい、つながれていない。
79年現在の29歳の僕は、そんな「つながれていない」状況を語ることで、いったい何を「伝えよう」としていたのだろうか? 少なくとも29歳の彼は、文章を書くことで何かを伝えること、それによる<自己療養>を目指していたはずなのだ。
彼は、他者と「つながれなかった」という状況を描くことによって、つながりえないことを読者に示そうとしたのである。「伝わらない」ジレンマを、これまで8年間悶々と抱えてきて、ようやくそのジレンマを「伝える」勇気を得たというべきか。
だから、この小説の読者に、「伝わらなかった」のね!ということが「伝わった」!!としたら、29歳の語り手の試みは、ひとまず成功したということになるだろう。
あなたは、「伝わった」!と感じられるだろうか?