ワークデザインを考えよう

今日は仕事を休んだ。長期休暇中で、仕事が詰まっていないので、つい力を抜きたくなってしまった。
こんなことじゃいかんな、という気もするのだが、これくらいちょっと肩の力を抜いてもいいだろうと思ったり。
そもそも、この仕事は、雑務が多すぎる。もちろんそう考えない方もいるだろう。
ただ、何が本業なのか、何にいちばん力を入れなければならないかが見え難くなっているような気がするのだ。
授業も行事も部活もそれぞれに大事だというのは分かるけれど、教師はスーパーマンじゃない。なんでも完璧にやろうとしたら体が持たない、というよりも、問題はどちらかというと仕事がマシーン作業的になっていて、業界そのものが官僚化していて、仕事の中身が硬直してきているんじゃないか。本来の仕事のあるべき姿からかけ離れてきてしまっているんじゃないか。
もちろん、教育というのは学校だけでも親だけの責任でもないし、こどもは様々な大人から学ぶものだろう。
学校には学校の分というものがある。出来ることもあれば、出来ないこともある。
しかし、こどもに働きかけ学びの機会を与える場である以上、そこに狙いやコンセプトがあって、うまく仕掛けて、うまく誘導してこそ教育だし、どんな学校にも、どんな形であれそれは絶対にあるはずだ。そこに時間と労力を割ける=情熱がある、というのが理想ではないかと思う。
しかし現実は、授業は片手間、行事はやっつけみたいな感じになってしまって(そうならざるを得ない事情があって)、それぞれの教師が熱意を持って仕事を真っ当し辛い状況ではないだろうか。
教師自身、自分のワークデザインをよく考えてみるべきだろう。
仕事を通して何を実現したいのか、自分はどうなりたいのか、自分の時間をどう生み出し、何を追究していきたいのか。そうした生活全体に仕事を位置づける必要が、ますます高まっているように思う。
自己申告にライフデザインを描かせられるのだが、あれは絵に描いた餅みたいなもので、お役所仕事だと思わせられる。部活に人生賭けてる教員もいるだろうが、他の事に情熱を傾けたい教員もいて様々なのに、程度の差はあれ同じ任務が要請されてしまっている。そうした現実の圧力の下で、教員が自分のライフデザインを描けといわれても、建前論を出ないだろう。こんな調子で、多くの事務的書類が建前論的に処理されていく。虚しい仕事に時間を奪われやる気を失くしてしまう。本当の仕事って、こんなもんじゃないだろうと思う。
藤原和博氏が、仕事を神輿担ぎに喩えて、こんなことを書いている。
“祭りでお神輿をかついでいる若者たちは、一年中ベタベタくっついて集団行動しているわけではない。各々の人生をしっかりと行きながら、年に一度の祭りの日には声をかけずともソレッと集まってくる。そして自分の力を出し切って、大事な氏神様の外遊を成功させる。ひと仕事が終われば、また各々の人生に戻ってゆく。(中略)お神輿をかつぐあの充実感、達成感が好きだから集うのであって、無理やり集められたから来たのではない。仕事が人を呼ぶのだ”(『給料だけじゃわからない!』)
学校現場にも必要なのは、こうした「仕事が人を呼ぶ」関係ではないだろうか。
さらに、藤原氏はこうも書いている。
“私は一般に、研修や現場から離れた教育で組織体の意識を画期的に革新できるとは考えない。経営者がもし、社員の意識改革を伴って企業のエネルギーを最大に引き出したければ、ツボを探して事業を打ち込むことである”
ここでの経営者を校長に、事業を学校経営案に読み替えれば、これは学校という組織体にも当てはまる話じゃないかと思う。もう一度基本に戻って、自分のライフワークデザインを設計すべき必要性を、ますます確信するのである。