教師のスタンス

教師として働いてみると、無意識に、自分が尊敬していた教師の授業を模倣しようとするといいます。
ぼくは、その言葉を聞いてから、そのことにとても自覚的でした。確かに、自分の出会った尊敬すべき教師はいいお手本だし、心のどこかで、そうした教師の後姿を追いかけている自分がいるのを感じます。でも、それって幻を追っているだけだということも分かります。
目の前にいる子どもたちは、教師自身の経験した時代とは異なる時代を生き、かつ異なる環境や諸条件の中に身をおいているわけですから。
ぼくは幸いにも、中学時代にも高校時代にも大学時代にも、尊敬の眼差しで見ていた教師がいました。
歳月が過ぎても、彼らはぼくの心の中で現在形です。でも、真似するだけでは上手くいかないことは確かです。

また、自分自身の子ども時代の記憶が、教師自身の子ども観なり教育観の原点を形作っていると、近頃そのように強く考えるようになりました。
例えば、優等生として中学校時代を送り、親や教師の期待を一身に集めて生きた人間が教師になった場合、基本的に人間は自分自身の努力でどこまでも成長していける、といった性善説的な人間観を持つのではないかと思います。自分がそのようにしてきたから当然です。でも、それはたまたま家庭環境に恵まれ、自分を励まし認めてくれる大人たちに恵まれていただけなのかも知れません。一方で、この世の中には、親に恵まれず、信頼できる大人を知らずに生きてきた子どもたちもいます。彼らは、もともと人生を恨んでいるかのように見えます。人と心の深い結びつきを求めることは、きっとない。(こんな話をすると、今話題になっている福島の17歳の少年のことを、つい考えてしまいます・・・)
ある種の教師は、子どもというのは放っておけば、きっと増長する。だから、境界線がどこにあるの毅然と示さねばならない。子どもは境界線を出たがる存在で、だから教師がガツンと叱ることによって、境界線がどこにあるのかを示し、線の外に出ようとする子どもたちを中に戻すことが大事だ、といったことを言います。ぼくのかつての同僚で、とても人望も厚く、ぼくも信頼を寄せていたある教師も、そういった考えを持っている人でした。でもそれって、自分の子ども時代の反省に立った子ども観なのではないか、と最近は思います。きっと子ども時代にやんちゃで、周りの子どもや大人たちを泣かしてきた人が教師になると、きっとそういう考え方を持つのではないかな。子どもは分をわきまえない、分をわきまえさせることが大人の役目だって具合に。

どの考えが正しいとか、間違い、とかいうことはないのだと思います。
ただ、生きてきた軌跡が一人ひとり違うのですから、教師の子ども観や教育観に違いが出てくるのは当然のことだと言いたいのです。そこに教師の多様性が生まれる余地もあると思います。
ただ、教師は教育のプロですから、そういった多様性についての広い認識と深い理解が不可欠です。
そうしたベースを核にして、状況を見極めながら自分のスタンスを選び取っていくのだと思います。