簡単には友達になれないもの

子どもでも、今は結構人間関係が複雑で、大変な次代を生きていると思うのだが、
それでも、子どもは運命に対して無力だ。同じクラス、隣に座った子と、仲良くなる。
上野千鶴子は「学校化社会」と揶揄したが、同じクラスや隣の席になるのは運命のいたずらで、自分で選んだ相手ではないにもかかわらず、その中で親しい友達を作っている。
自分で選択したのではない。与えられた条件を受け入れただけだ。それが子どもの人間関係である。
一方で、大人は自分というものが出来上がっている。自分の価値観をもって生きている。
だから、馬鹿(と自分に見える相手)には心を許さないし、友達になることもないだろう。
職場というのは偶然の産物だ。その中で、本当に自分を理解してくれる相手が見つかるとは限らない。たいていは見つからない。だから、本質的な会話を避けて、世間話的なもので盛り上がるしかないわけだが、その中で本当に心を許せる相手が見つかるとすれば、それは神のご加護による幸運か、その人がまだ「子ども」かのどちらかである。
大人は、、そんな運命によって同席した相手と、簡単に友達にはなれないのである。
今の日本の人間関係はかなりシビアにギスギスしているので、そんな甘い幻想の入る余地は残されていない。

だから僕は次のように思うことにした。
自分と価値観を共有できる相手が見つかったら、かなりラッキーである。
見つからないのが普通だと思え。
誰にも自分のことなど気に留められず、スルーされたとしても、それを嘆く必要はない。
気にされない気楽さを楽しめ。
以上である。

そのように考えれば、変なプライドで傷つくこともなく、気楽に自然でいられる。
精神衛生上、それがもっともよい。
ただし、他人の苦悩には敏感であるべきだ。
苦しんでいる隣人、悩んでいる他者に寛容であるべきである。
そうしないと、あなたの精神的な気位の高さも、無駄なプライドに過ぎなかったということになる。
本当に気位が高い人は、達観の高みに立って、他者に思いやり(仏教では慈悲)を持てるはずだし、
是非持つべきである。