〈道具〉論

最近考えていること。
道具を身体の延長あるいは一部分と感じられるようになるまで使いこなす(身体化する)ことが大事だなぁ。万年筆も、究極は、それが筆記具であることを忘れて、書く作業に専心できる状態にまでなることが理想だとか言います。松本清張氏は、それを求めたといいます。氏の愛用の万年筆はモンブランだったそうです。
文房具もそうですが、例えば楽器などもそうでしょう。本当に身体の一部と化して、それが表現の手段であることを忘れて無意識化されたとき、道具が道具であることをやめる瞬間が来ると思います。演奏家がプロなのは、そうした無意識レベルに達しているからではないかと思うのです。
何事も、繰り返しが上達の近道であるといいます。でも、繰り返しは飽きる。
いつか「これってこんなもんでOK!?」みたいな錯覚に陥るのです。すると、どんな事であれ陳腐になっていきます。例えば、演奏家の演奏は形だけになってしまう。「心」が入っていない状態になってしまうと思います。
「心」が入るというのは、感覚的あるいは観念的な表現ですが、しかし魂が震えている演奏というのは聴く者を震わせるし、それよりも演奏家自身が震えているはずです。でも、ルーティンワークのような演奏だったら、まぁ感動する人がいないとはいえないけれど、見る人が見れば(聴けば)良いか悪いかは一目瞭然(一聴瞭然!)なのではないかと思います。
そこで、ぼくはやはり「心が震える」ということが何より大事だなぁと思うのです。
道具は、安物でも高級なものでも、あまり重要な問題ではないのではないでしょうか。
高級な楽器を持つものが、「高級」な音楽をやれるわけではないように、
安物を使っていたって、すぐれた感性を表現することはできるのではないかと思う。
ポール・マッカートニーは、子どものころ、白いピアノを弾いていた。でも、いくつかの鍵盤は音が出なかったそうです。しかし、見事にその曲に合わせて、音の出る鍵盤を繋いで弾いたそうです。(ビリー・ジョエルだったかも・・・!?)
そういうものだと思うのです。
最近は、平凡な道具を使ってどれだけ独創的な仕事ができるかが大事じゃないか? と自分に言い聞かせています。