世間消滅後の世間

暇つぶしにショート動画を見まくっていて、日本の円高が危機だの、いやそうじゃなくてチャンスなんだとか、年金破綻は確実だとか、まぁいろいろと騒がしい。また、ホリ◯モンとか、成田◯輔とか、ひ◯ゆきとか、お馴染みの面々の動画が延々と出てくるので閉口する。フィルターバブルで、こういう動画が出てくるんだろうかと思っていたが、この前電車に乗っている時も車内の画面で彼らが出ているので、今や時の人なのだろう。

一番の違和感は、こういうネットの世界が、自分にとっての「世間」になってしまっていないかということだ。「世間」というのは、ご近所とのつながりや、町内会や村などの共同体をベースにあったものだと思う。まずは、顔の見える生身の人間たちの集まりだったのではないだろうか。でも、今、そのような「世間」は消滅してしまった。ご近所付き合いもないし、町内会の集まりなども東京都心ではまず行かない。そこで、「ネット世界」が直接的に触れ合う「世間」として、私たちの眼前に立ち現れてくる。

現代人は、ネットに情動を煽られるようになっている。しかも、幸せな気持ちを共有できることは少なくて、不安を煽られ、ナショナリズムに駆り立てられ、嫌韓や反中で意気揚々となるような思考回路が作り上げられている。

こういうタイプの動画を見ないでネット生活を送ることも可能だろう。できれば僕もそうありたいが、動画は無差別・無選択に向こうからやってくるので、いやでも目に入ってしまう。特にショート動画は。

「世間」が消滅して、そのしがらみから自由になれるのは幸せなことだと想像していたが、「世間」に代わるものとして「ネット世間」を用意してしまった。人々は、この「ネット世間」に飲み込まれ、生き方や価値観までも規範化されていくならば、これに対抗する方法をすぐに探さなければならない。