アイデンティティという観念

最近、古本屋で見つけた鷲田清一の自分探しに関する本を読み、いろいろと面白い気づきを得た。いちばん大きな発見は、不変の自己という説話に人はしがみついているという指摘だ。アイデンティティというのは、昨日の自己と今日の自己は同一であると観念することである。観念とは説話であり、幻想と言えるだろう。昨日の自己の今日の自己は違っていていい、というか違っていて当たり前じゃね?ということである。

なのに、それが間違ったことであるかのように捉えてしまう。何か申し訳ないことのように感じてしまう。どうしてだろうか。

もう、そういうのやめませんか?というのが鷲田氏の提案だ。

なかなか面白いと思う。