モノを所有することより、その先にあるもの

僕たちは、どんなに高級なモノを手に入れても、それだけで幸せになれることはないだろう。
どんなにモノにあふれた生活をしても、もうそれを幸せと感じられない時代を生きている。
戦後の物資の少なかった時代や、高度経済成長期のモノが日々進化していた時代とはわけが違うのだ。
だから、僕はモノにこだわることは、ちょっと虚しいことなんじゃないかと思うようになった。
最低限のモノは必要なのだけれど、それもあまりこだわり過ぎない方がいい。
モノにこだわりをもつことの楽しい面、プラスの面は確かにある。モノを通して自己主張することは、いつの時代だって行われてきただろう。
でも、何を持っているかを自慢する「消費者」より、何を作り出せたかを誇る「生産者」の方が、はるかに面白いだろうということは想像がつく。どんなに優れた商品を見出す目があったとしても、それを作り出した人にはかなわない。
ギターだって、高級なギターもあれば、チープなギターもあるが、本当に優れたギタリストはどんなギターを使っても、その人の音楽を作り出せる。ギターが作り出すんじゃない、人間が作るのだ。だから、優れていないギタリストにどんな立派なギターを持たせたって、野暮な音しか出せないにきまっている。
同じように考えていけば、モノにこだわることの楽しさと隣り合わせの虚しさというものが、ちょっとは理解してもらえるのではないかと思う。
現代の複雑な消費社会は、確かにたくさんの商品を生み出し、それらの商品は小さな差異を競っている。
そんな大量の商品を売るために、モノのカタログ化が欠かせない。あらゆるモノは、カタログ的に陳列され、吟味され、愛好家たちの嗜好の対象となるのだ。それは現代の消費文明が作り出した生き方でもある。確かに、そういうモノを愛でる趣味的な世界に埋没することもひとつの生き方だ。
しかし、僕はその道はちょっとなと思っている。
ミニマリストという考え方は、モノは使ってナンボであり、コレクションの対象ではなく実用に徹するという姿勢に貫かれている。そういう生き方が潔くて好きだ。
僕たちは、何を受け入れ、何を作り出すのか。
世界は受けれいるべきものと、変える努力をするべきものと、二つのうちのどちらかだ。そして、モノに耽溺するのではなく、変えるべきものを変え、作り出すべきものを作り出していくべきだと思う。そういう視点を持つことが、生きるヒントになるのではないか。