♪ 翼をください

今では音楽の教科書にものる曲だけど、当時のオリジナル曲はとてもサイケな雰囲気。

赤い鳥というバンド、ギターは大村憲司、ドラムは村上ポンタ秀一で、二人の出会いのきっかけになったということです。

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大村憲司YouTubeで追うと、少しだけだが演奏を聴くことができる。

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大村憲司は49歳で亡くなっている。生前の彼に対しては、クラプトンのギターを使っているくらいのことしか認識がなかったのだが、翼をくださいの演奏を聴いて、改めて興味を持った。

村上ポンタさんも鬼籍に入り、この方についてもいずれ取り上げなければなるまい。

ライブが終わった

昨日は社会人バンドのライブだった。ここ数年のコロナ禍で、地味にスタジオ活動を続けてきたのだが、ようやくライブに出る運びとなった。

映像を見ると、踏みものに忙しく動いていて落ち着きがないように見えるし、ところどころミスタッチが目立ち、見るのが嫌になってくるのだが、5〜6年くらいのブランクを経てまた人前で演奏できたのは良い経験だった。

バンドは正直なかなか大変で、基本的に引きこもり人間だから、趣味のつながりとはいえ、結構しんどく感じることが多い。対人ストレス症というか、離人症敵というか。この性分は今後もあまり変わらないだろうと思うが、だから引きこもって一人になるのが好きかというと、懲りもせずにまた新しいバンドにでも参加しようかという気になっている。

ま、今回のライブに向けていろいろ調整が必要で、結果疲れやすくなっており、眠気が半端ない。おまけに最近なんか悪い病気にでもなってるのかというくらいげっそりと痩せてしまい、食欲もそれほどなかったのだが、今は急に空腹を満たしたい欲望に火がついている。

精神的なアップダウンの周期と、身体的な周期が驚くほど同期している。まだまだ仕事はやらなければならないことが多く、うんざりした気持ちになるが、「仕事なんか適当にやれ」を訓是に、まずは精神衛生を保つことに注力するつもりである。

ものぐさ日記を書くことにした

8月頃から精神的に絶不調。何が、というわけではないが、仕事の燃え尽き症候群的なものと、さまざまな人との関わりの中で感じるストレスなどが相まって、精神のバランスが徐々に崩れてきたということだろう。

そんな状態でも、本だけは読む気力があって、8月から9月にかけては岸田秀の著作に没頭していた。内田樹も読んだ。今は「書物の近代」を読んでいる。

読書だけが唯一の気休めになっている。

社交は辞退して、書斎に閉じこもるか、カフェに繰り出して本を読んだり仕事のことを考えたりして過ごす日々だった。(プライベートな時間を使って仕事のことをやるのは本当は嫌なのだが、そうせざるを得ないのが辛いところ。)

岸田秀は「ものぐさ精神分析」という本を書いていて、自称「ものぐさ」である。

僕も自分で自分を縛っているさまざまな呪縛から逃れたくなり、全てのことが「どうでもいいことだ」「無理してやるのは馬鹿げている」と「ものぐさ」礼賛者になっている。当面「ものぐさ」モードから脱けられそうもない。

面白い人間を探そう

憂鬱な日々を過ごしていた。色々と気が滅入ることが多かったので。

恵まれた暮らしをしていても、人間関係の悩みは尽きることがない。そもそも人嫌いなので、うんざりしてしまう。

といっても、狭い人間関係しか持てていないから、その中で人嫌いと言ってもしょうがないかなと思い始めた。

自分の好きになる人と関係を深めていけばいいんじゃないかと。そう考えると、とても

気が楽だ。

今の日本は、色々と問題も多くて困った社会になってきたと感じることも多いが、一定の自由は保障されているし、自分の考え方次第で地獄にも天国にもなる。そもそも理想的な社会などないのだから、色々な障害があって当たり前で、そのような社会の中で希望を見出していくことが必要だろう。

音楽はこれまで希望だったが、バンドを始めて少し陰り出した。今のバンドが合っていないのかも知れない。だったら、他のバンドを探せばいいじゃないかと。

街に出て、もっと面白い出会いを見つけよう。

コロナ禍になって、外に出る機会がめっきり減った。面白い人と出会いに行くチャンスがなくなった。そういうことも、今の陰鬱の原因だとすれば、俺もまた、コロナ禍におけるメンタルヘルスをやられた人間ということなのだろう。

アイデンティティという観念

最近、古本屋で見つけた鷲田清一の自分探しに関する本を読み、いろいろと面白い気づきを得た。いちばん大きな発見は、不変の自己という説話に人はしがみついているという指摘だ。アイデンティティというのは、昨日の自己と今日の自己は同一であると観念することである。観念とは説話であり、幻想と言えるだろう。昨日の自己の今日の自己は違っていていい、というか違っていて当たり前じゃね?ということである。

なのに、それが間違ったことであるかのように捉えてしまう。何か申し訳ないことのように感じてしまう。どうしてだろうか。

もう、そういうのやめませんか?というのが鷲田氏の提案だ。

なかなか面白いと思う。

13歳の天才数学者の番組を見た

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本人の生まれ持った才能もさることなら、その才能を開花させるための条件として、家庭環境や親の存在は大きい。「2歳で風呂場に掛け算九九の表が貼ってある」なんて、只者じゃないです。「400ページの英文の数学書を手渡す」という母親も伊達じゃありません。そう言う意味で、ギフテッドな子どもの存在にとって、親の価値観や生き方ってすごく大きな鍵を握っているようにも思います。

ホームスクーリングという話があって、それも興味深かった。学校が才能の開花を阻害する場所になっていないか、今一度問い直さないといけないな、と。「集団の同調圧力」とか、「悪しき平等主義」とか言われるような状況が、才能ある子供にとっては生きにくい環境となっていないか、という問題である。

そして、これからの社会は、こういう才能あふれる子供の成長を後押ししていくべきだという世論になっていくんじゃないかと思う。才能の開花は押し潰されるべきではない。もし才能の開花を押しつぶすことで保たれる平等なるものがあるなら、そんなものに未来はないということを多くの人は分かっているだろうから。)