村上春樹による世界との対峙の仕方

タイトルのテーマで何か書けないかと思っている。
春樹さんの本が世界中で翻訳され、売れに売れている現象について
多くの識者が様々に語っている。
そのどれもが、なるほどと思わせられるが、僕の言葉で要約すれば、
社会は農村型社会から都市型社会へと変容する。
それが現代の世界を覆う宿命的な現象である。
好むと好まざるとに関わらず。
そして「農村型社会」とは「お節介型の社会」でもある。
成人儀礼、仕事、結婚等、個人の人生に他人が多く干渉する社会である。
一方、「都市型社会」とは、個人の自由を尊重し、他人が個人の人生に口を差し挟まない社会である。
このへんのことは、小浜逸郎や森真一をお読みください。
(特に最近読んだ森氏の『かまわれたい人々』はなかなか興味深かったです。)
 
話を戻すと、現代の日本は「都市型社会」であるために、個人の自由が最大限保障されている一方、
人々は無限の自由というつかみどころのなさの中で浮遊し、「自由から逃走」したいと思っている。
「かまわれない孤独」(森真一)に侵されていると言える。
そんな社会に対して、個人はどのように対峙していけばいいのか?
当然ながら、多くの人たちは迷い、不安である。
モデルが欲しい。しかも、自己の誠実さや公正さといった価値判断を尊重して生きたいと願う。
それを見事にモデルとして提示してくれているのが、村上作品の登場人物たちなのではないか。
村上作品の登場人物たち・・・・・「やれやれ」とか、可笑しな比喩によって対象を切り取る有り様とか、
音楽への嗜好とか、食べ物とか、そんなディテールが登場人物のライフスタイルを一段と魅力的な
ものにしている。
都市化の中で浮遊し孤独に陥らざるを得ない個人は、村上の小説世界を通して、世界との対峙の仕方を
学び、かつ共感的に彼らの生き方に感応し、その結果自己を否定することにはならない。
むしろこれまでおぼろげながらも摑んできた自己の生き方のルールに確信を与えられる。
それが、ムラカミ・ファンの世界的な拡大へと繋がる理由であるに違いない。
 
爆笑問題太田の批判を聞いたが、春樹作品の陳腐さを論破すればするほど、読者の問題(世界中でどうしてそんなに読まれているのか?ってこと)が置き去りにされてしまっていることが気になる。
春樹作品の「陳腐さ」を、高みから見下ろすのではなく、「陳腐さ」の自立性をも尊重しながら、そこに潜む問題系を炙り出すことこそ、批評の名に相応しい。その意味で、太田は負けていると思う。